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1027年 ファレーズ城
すでに深夜となっていたが、『領主の館(メヌア)』の城門前にはふたたび多くの住民が集まり、『中へ入れろ! 』と悲痛なる叫び声を上げていた。その人数は夕方の倍以上に膨れ上がっている。
彼らもどこからか、明朝の総攻撃の噂を聞きつけ、大いに脅えていたのだ。
城の中に入らねば、彼らが皆殺しにされる事は確実だった。
その恐怖は、暴動を引き起こす一歩手前にまで膨れ上がっていた。
しかし、『領主の館(メヌア)』の中からは、相変わらず何の反応もない。
「くそッ! 」
苛立った1人の住民が、足元に転がった石を拾い上げ、それを城門に投げつけようとした。それは、大きな騒動の発端(ほったん)になりかねない一投であった。
だが、まさにその刹那(せつな)、門の横に立てられた物見櫓(ものみやぐら)にエルレヴァが現れたのだ。
石を振りかぶった男は、その姿に動きを止めた。
毛布を二重三重にまとった彼女は、サミーラとシュザンヌに付き添われている。
低体温症の治療が上手くいったとはいえ、彼女は妊婦である。あと数日は、ベッドで横になって安静にしていなければならないハズであった。だが、いまの彼女には、どうしても果たさなければならない事があるのだ。
警備兵の掲(かか)げる松明(たいまつ)にエルレヴァが照らし出されると、彼女を発見した人々は水を打ったように静かになった。彼女が、何かを言ってくれるのではないかと期待したからである。
エルレヴァは一度深く息を吸い込むと、大きな声で聴衆(ちょうしゅう)に語り掛けた。
「皆さん‥ 安心してください。 皆さん全員を『領主の館(メヌア)』内に受け入れる事が決定いたしました 」
その言葉が終わるか終わらないかの内に、住民達から大きな歓声が上がった。誰もが、絶望から救い出された安堵(あんど)に笑顔となっている。
エルレヴァの言葉は続いた。
「これだけの人数です。 城の中に入(はい)れば、いたる所が人であふれ、横になる場所もないでしょう。 食べる物だって一食分しかありません。 毛布を全員に配る事さえできないのです 」
「‥‥‥ 」
「しかしながら‥ それでも、敵に殺されるよりはマシだと思います―――皆さんは、それでもかまいませんか? 」
人々は口々に叫んだ
「けっこうです。 どうか、中に入れてください! 」
「お願いします。 わたし達を中に! 」
「助けてください! 」
「早く、中に入れて! 」
エルレヴァは住民達をゆっくりと見回しながら、彼らの声が収まるのを待った。そして、ふたたび話し始めたのだ。
「ごめんなさい。 皆さんが、この中に入るためには、ひとつだけ条件があるのです。 それを成(な)し得(え)た人だけが、中に入る事を許されます 」
住民達は、エルレヴァが無理難題をふっかけてくるのではないかと顔を曇(くも)らせた。
そんな彼らに、エルレヴァは条件を提示した。
「この街の城壁に向けて、一人3杯ずつ―――水桶(バケツ)で水を掛けていただきたいのです 」
「はあ!? 」
訝(いぶか)しげな顔をする門前の人々に、エルレヴァはもう一度説明した。
「外城壁と『領主の館(メヌア)』の城壁のあらゆる場所を、すべてビシャビシャになるまで濡(ぬ)らして欲しいのです 」
エルレヴァは、敵が絶対に許せなかった。
何者だか知らぬが、彼らは何の罪もない人々をたくさん殺した。ナイフ1本持たず、戦う方法さえ知らぬ者達を一方的に殺したのだ。
それが卑怯だと思った。
そんな理不尽(りふじん)が許されてよいはずがない。
さらに、その怒りの中には、殺された者の多くが彼女の知り合いであった事も含まれていた。
皮なめしの親方であるフルベールは富豪であったが、その住まいは貧民街にあった。まさに、敵が襲撃したど真ん中に住んでいたのだ。
身の回りの世話をしてくれた女中の『ソフィ』や、笑顔がさわやかな職人の『レミ』、彼女が屋敷を出るといつも挨拶(あいさつ)してくれた『歯抜けのジャック爺さん』、ともに洗濯をした幼なじみの『ジゼル』―――みな殺されていた。
担架(たんか)で運ばれる途中に見た彼らの顔が、エルレヴァは忘れられなかった。
そして彼女は誓(ちか)ったのだ―――こんな事をした奴らを絶対に許さないと。皆殺しにしてやると決心した。
土塁(モット)の避難所で体を温めていた間も、彼女はずっと復讐の方法を考えていた。
そして、100騎を超える騎馬軍団を皆殺しにする方法をついに思いついたのだった。
「急いで、水を汲(く)み上げろ! 」
「水をこぼさないように運べ! 」
「早く、水桶(バケツ)を渡せよ! 」
「水は、なるべく塀の高い位置に掛けるんだ! 」
アチコチでこうした声が上がり、街中が喧噪(けんそう)に満ちていた。
城内の住人達はバケツリレーをしていたのだ。
彼らは貴族や金持ちの使用人、女中である。
家族が住む下町とは違い、彼らの職場である城内に子供はほとんどいなかった。わずかにいた子達は、すでに『領主の館(メヌア)』への入城が許されており、その場にいるのは大人だけであった。
彼らは、男も女もなく、ひたすら水桶(バケツ)を運び続けていた。
エルレヴァが考えた敵殲滅(せんめつ)の作戦とは―――彼らを外城壁と『領主の館(メヌア)』との間に閉じ込めた上で、城下に火を放ち、彼らを焼き殺すという方法だった。
本格的な騎兵団を前に、そんな単純な作戦が通用するのか、大いに疑わしかったが、それ以外の方法を誰も思いつかなかった。
そして、それを成功させるためには、木で作られた壁―――とくに外城壁に火事の火が燃え移り、その部分が崩れる事を防がねばならないのだ。
塀が壊れると、そこから敵が外へ逃げてしまうからである。
1人でも逃がせば、いつの日かまた攻め込んでくる可能性もあった。ここは完膚(かんぷ)なきまでに、敵を叩き潰さねばならない。
だから、塀が燃えないように、あらかじめ水を掛けておくのだ。
もちろん、少々水を掛けたからといって、木の塀がそれらをすべて吸い込むわけではない。
ただ、外城壁は表面が完全に乾燥しきっているようだった。
ゴルティエらは、エルレヴァ救出のためにその塀を登った時、表面が熱くなっている事に気づいていた。
また、燃やされた下町は燃え尽きてもなお、高い温度を保っている。真冬だというのに、時折温かい風が『領主の館(メヌア)』にまで届くほどであった。
となれば、おそらく外城壁は引火しやすくなっているに違いない。まずはそれを押さえなければならなかった。
そこで、塀にたっぷりと水を掛け、その表面温度を下げると同時に、濡(ぬ)らして引火しにくくするのだ。
さらに、塀から流れ落ちた水は、周囲の地面を濡(ぬ)らす。それによって、塀から2~3ウナ(約2.4メートルから3.6メートル)ほどが防火帯となる。
簡単な事であるが、まさに一石三鳥の策だった。
ファレーズの城内には、5つの井戸がある。
800人ほどの住人は、15の班に別れて、バケツリレーを行(おこな)っていた。
各班50人前後の人々は、井戸から自分達の担当の地区まで列をなし、水を汲(く)み上げると、水桶(バケツ)を順番に手渡ししていく。そして列の先頭の者が城壁に水を掛けるのだ。
水を掛け終わった者は列の最後尾に並び直し、井戸から水を汲(く)むと、その水を運搬用の水桶(バケツ)に入れ直すのである。これはかなりの重労働であった。
15も班があるので、ひとつの井戸には3本の列ができた。そのそれぞれの班は、5、6個の水桶(バケツ)を与えられている。合計15個以上の水桶(バケツ)が常に移動しているわけである。
彼らは他の班の水桶(バケツ)とぶつからないように間合いを調整しながら、次々とロープがついたそれを井戸に投げ込み、引っ張り上げた。
外城壁は、高さが30ピエ(約9メートル)ほどもあったが、それをすべて濡(ぬ)らすためには、なるべく高い位置から水を掛けた方がよかった。そこで、ハシゴに登ったり、城壁そばの屋敷の屋根に登ったりして、水を掛ける班もあった。
こうして、班の全員が3杯ずつの水を掛け終われば、彼らはやっと『領主の館(メヌア)』の中へ入る事ができるのであった。
ピエトロとゴルティエは、水掛け作業の進捗(しんちょく)状況を確認するため、外城壁に沿(そ)って巡回していた。
「順調に進んでいるようですね 」
ゴルティエがピエトロに声を掛けると、彼は満足げに頷(うなず)いた。
「警備兵を使って、ズルをする班がいないか確認させているが‥ 今のところそのような不届(ふとど)き者は1人もいないようだ 」
「そりゃあ、そうですよ。 やっと『領主の館(メヌア)』への入城を許されたんですからねェ。 ここでウソや誤魔化しをして、それを拒否されたら元も子もありませんから 」
「うむ。 だが、それだけでなく‥ エルレヴァ殿が街の全員に、作戦の全体像をきちんと説明してくれた事も大きかったと思うよ。 お陰で、彼らはこの作業が自分達の命を守るために重要である事を理解している。 だから、手抜きなどできないのさ! 」
「なるほど。 確かにそうかもしれませんねェ‥ 」
ピエトロは足を止め、ホッとした顔をゴルティエに向けた。
「それにしても、助かったよ。 この人達を城に入れるか入れないかで、わたしは大いに悩んでいたんだ。 いや、それどころか‥ 我々傭兵(ようへい)隊はこの街を見捨てて、脱出する事さえ決めていたんだから‥ 」
「え!? 皆さんだけで逃げ出すおつもりだったんですか? 」
「ああ‥ だって、誰もこの街を守るために戦おうとしてなかったじゃないか。 なのになぜ、よそ者の我々だけが戦わなきゃならないんだい? そんなのおかしいだろう 」
「まあ‥ それはそうですけど‥‥ 」
「しかし、君のお姉さんだけは違った。 彼女はただ1人、戦う決意をしていたんだ 」
「‥‥‥ 」
「そのお陰で、今は街中の人々が戦っている―――戦う準備をしていると言った方が正確かな‥? ともかく‥ だったら我々だって、一緒に戦う事はやぶさかじゃない 」
「ありがとうございます 」
「いや‥ すべては、君のお姉さんが動かしたんだ 」
「それもこれも‥ ピエトロさんが姉の救出を許可してくれたお陰です。 それがなかったら、いまごろ姉は誘拐されていたか、死んでいたかしていたでしょうからね 」
「ともかく‥ 君のお姉さんは女傑(じょけつ)だよ。 わたしなんかよりも、ずっと肝(きも)が据(す)わっている。 わたしじゃ、守るのが精一杯で、敵を殲滅(せんめつ)させようなんてまったく思い浮かばなかった 」
「そうなんですかねェ‥ 家じゃ、ネズミが一匹出たくらいでも、キャーキャーと大騒ぎしてますけど‥‥ 」
「そういうところも含めて‥ 彼女こそが、この街の女主人にふさわしい人物なんだよ 」
「皆さんのお屋敷は、これからすべて燃えてしまいます 」
エルレヴァは、すでに入城している貴族や金持ちなど、約40世帯ほどの家長(かちょう)を前に、『領主の館(メヌア)』の広間で説明をしていた。
「ですから、もし貴重品や財産を持ち出したいと思われる方は、取りに戻っていただいてもけっこうです 」
「‥‥‥ 」
「ただし、皆さんの使用人達はこの殺戮(さつりく)作戦のための重要な作業を現在行(おこな)っています。 ですから、彼らを使用する事は認めません。 また、場所をとるので、馬車や荷車などの使用も控(ひか)えてください。 あくまでも、自分達の両手で抱えられる分だけです。 あまり欲をかくと、自分や家族の命を失う事になりますよ 」
「は‥ はい‥ 」
「ではどうぞ、ご自由にお戻りください 」
エルレヴァがそう告げると、彼らは足早に自分の屋敷へと戻って行った。
水掛けの作業は、夜明けよりもずいぶん早くに終了した。外城壁も『領主の館(メヌア)』の城壁も、ほぼ全域がびしょ濡(ぬ)れになっている。その一方で、井戸は完全に涸(か)れてしまった。元の水位に戻るには、数日かかるであろう。
もはや、みずから発生させた火事を消火する事はできないのだ。
約束通り、『領主の館(メヌア)』の城門は開かれ、作業を終えた住民達が続々と入場してきた。
またたく間に、城内は1000人以上の人々で埋まってしまった。
クタクタになった彼らには、座り込むだけの場所しか与えられなかった。
それでも彼らは、その窮屈(きゅうくつ)な場所で敵が攻めてくる時を、固唾(かたず)を呑(の)んで待っていたのである。
誰もが、この作戦に一抹(いちまつ)の不安を感じないわけではなかったが、何もせずに殺されるよりは、ずっとマシだと考えていた。
むしろ、1人でも多くの敵を殺してやると意気込んでさえいたのだ。
やがて、太陽が東の地平線から顔を出し、あたりを照らし始めた。
十分に明るくなった頃、街の外で鬨(とき)の声が上がった。
「いけェェェェェェェい‼ 」
「皆殺しにするんだァァァァァァあ‼ 」
100騎近い騎馬軍団が、地鳴りを上げてファレーズの街へと突進してきたのだ。