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 1026年 ファレーズ城・中庭(2)


「わたしと兄は、幼い頃に父母から引き離され、あの口うるさいティボーに育てられました。 それゆえに、母が恋しくて、ずいぶんと寂しい思い、悲しい思いをしてきました 」
「‥‥‥‥ 」
「その頃からでしょうか、わたしは人の笑顔を見る事が大好きな子供になったのです。 誰かが笑っていると、その寂(さび)しさがやわらぐのです。 幸せな気持ちになれるのです。 自分まで楽しくなれました。 だから、みんなを笑わせたかった。 わたしの周りの人すべてが―――貴族も、家臣も領民も‥ すべての人を笑顔にしたかったのです 」
 淡々と語るロベールの話しに、頼純はじっと耳を傾(かたむ)けていた。
「ですから、いつも人を笑わせる事を考えていました。 道化(どうけ)のように人まねをしたり、吟遊(ぎんゆう)詩人のように面白い事をいう練習をした事もあります。 くすぐり方の研究をした事さえあったのです 」
 ロベールの話には『人々が笑顔になって欲しい 』ではなく、『(自分が積極的に)笑わせたい 』というところに、力点が置かれているようであった。
「しかしそれらの笑いは、一時的なモノに過ぎません。 人を心から笑わせたければ、何か違う方法が必要なのです。 わたしはさらに、その方法について考えてみました そしてある答えに達したのです 」
 ロベールは得意げに、その結論を発表した。
「それは、彼らをまず豊かにする―――収入を増やしてやるという事でした」
 頼純は驚かされっぱなしだった。
 王侯(おうこう)貴族が、自分の支配する民の笑顔が見たいなどと発した話を彼は聞いた事がなかった。ましてや、その民の収入を増やしてやりたいなど、なおさらの事だった―――。
 中国古代の思想家―――孔子(こうし)や孟子(もうし)は、諸侯(しょこう)に『仁義(じんぎ)』の道を説(と)いたが、世界中を旅した頼純は、現実にはそのような王や貴族がいない事を知っていた。目の前のただ一人を除いて‥‥

「日々の生活に不安を感じていては、心の底から笑う事などできないのです。 その一番大きなモノは、空腹への不安でしょう。 そして、この不安を解消する唯一の方法が収入の確保なのです 」
「‥‥‥ 」
「収入があれば、本人のみならず、家族をも満腹にする事ができます。 腹がくちくなれば苛立(いらだ)つ事も減り、そのタメに盗みを働く者も少なくなります。 そうなれば、盗みや喧嘩(けんか)で殺される者も激減(げきげん)するに違いありません。 誰もが安心して暮らせる社会ができるのです 」
 人間とは業(ごう)が深い生き物である。その欲には際限がないのだ。満腹になれば、より旨(うま)いモノを求め、どれだけ収入を手に入れようとも、さらなる富を求める。理想郷への道はそう簡単ではない。
 とはいえ、『飢え』から開放されるだけでも、その道は7割ほどが達成される。人々は幸福に近づく事ができるのだ。
 彼の唱(とな)える『収入の増加』は、確実に人々の笑顔を増やすだろう。
「しかしながら、『収入の増加』は簡単には達成する事ができません。 それはなぜでしょうか? 我々領主が重税(じゅうぜい)を課すからでしょうか? それとも、彼らが怠(なま)け者だからでしょうか? 」
「さ‥ さあ‥? 」
「それもあるでしょうが‥ 一番の原因は、彼らが働く以上に作物の収穫(しゅうかく)量が上がらない事なのです 」
「しゅ‥ 収穫(しゅうかく)―――? 」
「いいですか? 我々荘園(しょうえん)領主は、すべての農民に対して賦役(ふえき)労働を強(し)いて、自分達の直轄領(ちょっかつりょう)を耕作(こうさく)させています。 自分の農地を持つ農民でさえ、一週間の半分はこの賦役(ふえき)に狩り出されるのです 」
 ロベールは雄弁(ゆうべん)に語った。それはいつものような子供っぽいもの言いではなく、どちらかというと学者のような話しぶりであった。
「そして‥ 労働時間が同じならば、同じ面積の農地から収穫(しゅうかく)される農作物は同じ量にならなければならないハズです。 しかし、いくら計算しても、直轄領(ちょっかつりょう)から上がる収穫(しゅうかく)量は、農民保有地(マンス)にくらべて低いのです 」
「ま‥ まあ‥ そりゃあそうだろう‥! 賦役(ふえき)労働なんて、みんな嫌々やってんだから‥ それじゃあ、農作物も育たねェわ 」
 やっと言葉を発した頼純に、ロベールは我が意を得(え)たりとばかりにまくし立てた。
「そうなんです! ちょっと、働く人の立場になって考えれば分かる事なんです。 いくら真面目(まじめ)に働いても、自分の取り分が増えるわけじゃないんですから‥ これでは、働く意欲なんて湧(わ)きませんよね 」
「けど‥ 世の中なんて、そんなモンだろう 」
「だったら‥ たくさん働いた人が、それに見合う報酬(ほうしゅう)を受け取れる制度にすればいい! そうすれば、直轄領(ちょっかつりょう)の収穫(しゅうかく)量だってきっと上がるハズ! 収穫(しゅうかく)量が上がれば、我々の収入も当然上がります 」
「せ‥ 制度を変える―――ってか‥? 」
 その信じられない言葉に、頼純は一瞬息をする事を忘れた。
「今のように、直轄領(ちょっかつりょう)の収穫(しゅうかく)すべてを我々のモノにするのではなく‥ 荘園(しょうえん)の耕作(こうさく)権を農民に与え、そこから上がった収穫(しゅうかく)から一定率を税として収めさせるようにすればよいのです。 収穫(しゅうかく)量が二倍になれば、土地の使用料としてその半分しか徴収(ちょうしゅう)しなかったとしても、我々の取り分は変わりません。 しかし、農民達は大きな収入を得る事ができるのです 」
「は‥ はあ‥‥ 」
「たくさん食べたい者‥ 金が欲しい者は、人よりも多く働けばいい。 そうすれば、貴族も農民も、皆(みな)が幸せになれます 」
 ロベールが出した5番目の方法は、貴族の荘園(しょうえん)社会を根底(こんてい)から覆(くつがえ)すモノだった。
「どうです? いい考えだと思いませんか? 」
「ま‥ まあ‥ アンタの考え方自体は画期的だと思うよ! 思うけどォ‥ それは収穫(しゅうかく)量が二倍になるってー事を前提にしての話しだろう? けど、いくら皆(みな)が一生懸命に働いたからって、それだけで収穫(しゅうかく)が倍になるとはとても思えねェがなァ‥‥ 」
 ロベールは頼純に指を突き付けると、嬉しそうにしゃべった。
「でしょう!? そう思いますよねェ! その通りなんです! 収穫(しゅうかく)量を飛躍的に増加させるためには‥ この税制改革をやった上で、農機具(のうきぐ)の近代化をはからなければならないのです! 」
「の‥ 農機具の‥ 近代化‥‥? 」
 ロベールはコクリと頷(うなず)いた
「たとえば‥ いま農民達が使っているクワはほとんどが木製です。  鉄製のクワは高価だから、裕福な農民しか使う事ができないのです。 しかし、もしこの鉄製のクワをすべての農民が使えるようになったら、農作業はずいぶんはかどると思いませんか。 もっともっと多くの土地を耕(たがや)すことができるハズです 」
「たしかに‥! ガリアの土地は、固くて、石ころだらけだ。 木製のクワやスキじゃすぐに折れてしまう。 けど、その高価な鉄製のクワを、どうやってすべての農民に所有させる―――? 」
「我が家の財(ざい)で、大量に鉄製のクワを買い、それを皆(みな)に分け与えればよいのです。 ただし、無料だと不公平が出る可能性もあるので‥ その分の料金は、税の徴収(ちょうしゅう)の時に差し引けばよいと思います 」
「はあ‥!? アンタ‥ 自分チの財産を使って、農民にクワを買ってやる気かい? それじゃ、元(もと)は取れネーだろう 」
「ええ‥ すぐにはネ! けど、5年後、10年後にはきっと大きな利益となって返ってきますよ。 人々が豊かになって、領主が損をするコトなどないのですから‥ 」
「はあ~~~ん‥ 」
 きれい事と言ってもよいほどのロベールの理念には、頼純も呆(あき)れと驚きの混(ま)じった溜息(ためいき)を漏らすしかなかった。
 ロベールは嬉々(きき)としてさらに語った。
「あと‥ いま話題の、重量有輪犂(じゅうりょうゆうりんすき)も何十台か投入し、それを牽(ひ)く馬や牛も貸し出ししてやれば、さらに生産高は上がると思います。 あれって、すごいらしいですよ 」

 『犂(すき)』とは、耕作(こうさく)地の土をひっくり返し、土地の通気と水はけを良くするタメの畝(うね)を作る道具である。
 この時代、重量有輪犂(じゅうりょうゆうりんすき)というモノが出現した。重さによって、刃を深く土に食い込ませる事ができるこの犂(すき)は、北部ヨーロッパの固い大地に絶大な効果があった。それは、木製のクワの何十倍ものスピードで、畑を掘り返す事ができるのである。


 ただし、この重量有輪犂(じゅうりょうゆうりんすき)は何頭もの牛馬に牽(ひ)かせるため、直線には強いが、回転することが苦手だった。狭い土地には向かないのである。
そのため、いまだ直轄領(ちょっかつりょう)のような大きな土地でしか使われていなかった。


 ロベールの話はとまらない。
「この重量有輪犂(じゅうりょうゆうりんすき)を有効に使うために、領主直轄地(ちょっかつち)も農民保有地(マンス)もすべての農地を集約させて、そこに三年輪作(りんさく)制を導入するのです。 そうすれば、収穫(しゅうかく)量が増加するだけでなく、凶作(きょうさく)の危機回避(かいひ)や労働の分散も可能になります 」
 このあたりになると、頼純も半分ほどしか理解できなくなっていた。それほどに、ロベールの農業への知識は豊富だったのだ。

 中世中期の農業は、主力である小麦の生産だけをとっても極端に収穫(しゅうかく)率が悪かった。
 わずか二倍ほどしかないのである。
 つまり、一粒の種籾(たねもみ)を蒔(ま)いて、それが二粒にしかならないという事だ。
 小麦は、一粒の種籾(たねもみ)から数本の茎(分げつ)が発生し、そのそれぞれの穂には30もの麦粒がつく。つまり計算上では、一粒の種籾(たねもみ)から、200粒以上の麦粒が収穫(しゅうかく)できるハズなのだ。
 という事は、蒔(ま)いたほとんどの種籾(たねもみ)が発芽(はつが)しないか、または発芽(はつが)しても途中で枯れてしまうという事である。
 二倍とは、古代ローマ時代の半分、一千年後の十分の1の収穫(しゅうかく)倍率でしかなかった。
 ちなみに、アジアの水耕地(すいこうち=田んぼ)で作られる米は、その時代でさえも約20倍の収穫(しゅうかく)倍率があった。

 その小麦の収穫(しゅうかく)倍率が低い原因は、大半が畑―――土なのである。
 小麦のみならず、畑で毎年、毎年作物を作り続けていると、その土から養分(ようぶん)が奪(うば)われ、作物の発育が悪くなるのだ。また、病気も発生しやすくなる。

 その対策として、8世紀頃から三年輪作(りんさく)という農法がとられ始めた。
 耕地(こうち)を三つに分け、それぞれを冬麦の畑、春麦の畑、休閑地(きゅうかんち)として、これらを毎年入れ替えていくのである。
 休閑地(きゅうかんち)では、家畜(かちく)に牧草を与え、その替わりに落としたフンを肥料(ひりょう)として地力(ちりょく)を回復させる(これは13世紀から始まる三圃(さんぽ)制とは少々意味が違う。三圃(さんぽ)制は農法というよりも、農民保有地(マンス)や村の共同耕作地を集約して、その開放耕作地内で効率よく三年輪作(りんさく)を行う社会システムの事である)。

 ただし、三年輪作(りんさく)方式は集約的農業となるため、これもやはり広い耕作面積を持つ領主などの直轄地(ちょっかつち)でしか行われていなかった。
 だが、この三百年後、三年輪作(りんさく)制がヨーロッパ全土に広がると、麦の収穫(しゅうかく)倍率はたちまち3倍にまで跳(は)ね上がる事になる。

「それから‥ 森林をもっと開墾(かいこん)し、耕地(こうち)面積を広げれば収穫(しゅうかく)量はさらに増えると思います。 その土地の耕作権は開墾(かいこん)した者のモノとしてもいい。 そうすれば、みんなもやる気が湧(わ)くでしょう 」
「そうなると‥ 鉄の斧(おの)が大量に必要になりますよ。 だったら、もっと鍛冶屋(かじや)も作らなければなりません 」
「それから、粉を挽(ひ)く水車をもっと増やしたいですね 」
 ロベールの口からポンポンと出てくる言葉に、頼純はただただ驚いていた。
 ひとつひとつのアイディアは、聞きかじりの生兵法(なまびょうほう)といえなくもない。
 だが、それらを使って農民の収入を上げ、それによって税収の増加をはかろうと考えた事はじつに画期的であった。

『支配者とは、自分の領民から奪(うば)えるだけすべてを奪(うば)う存在』―――そう考えられていた時代に、領民の収入を上げるため、農地改革を行い、必要な農機具や資金の貸し出しまでをも領主が代行するという政策は、一部のキリスト教教会を除けば、あり得ない事であった。
 それは、ヨーロッパにおける新しい形の政治だといっても過言ではない。

 そして、もしそれが可能であるのなら、頼純の考えよりもずっと堅実(けんじつ)で、実効(じっこう)性が高かった。
 『市(いち)』を開くと、たしかに富はもたらされるが、それは一部の商人達の利益であり、彼らがさらに金を使って初めて、他の人々にも利益が回ってくるのだ。いわば、上からのおこぼれが徐々に、下の人々の収入となる方法である。
 一方、ロベールのやり方なら、多くの貧しい農民達の収入を上げることによって、上の者にも富がもたらされる方法である。そしてその方法の方が、経済は安定すると思われた。
 単に物を動かす『市(いち)』よりも、確固たる生産基盤(インフラ)を作る農業改革の方が、人々の生活は豊かになるだろう。
 さらに、生産物が増えるという事は、より大きな規模で『市(いち)』を行うことも可能とする。

「これらが実現すれば、生産高を倍増させる事もそう難しい事ではないと思います 」
「い‥ いや、すごいよ‥ 」
 だが頼純は、のんびりしたお坊ちゃま伯爵が、この画期的な政策を考え出したとはにわかに信じ難(がた)かった。
「でも、これって‥ 本当に伯爵さんが考えたの? エルレヴァさんとかから教えてもらったんじゃなくって‥ 伯爵さん一人で―――? 」
「ええ‥ もちろん! わたし一人で考えましたけど‥ やっぱり、へんですかね? 」
 ロベールは頼純が思っていたよりも、はるかに聡明な人物であった。
「い‥ いや‥ だったら‥ 石の城なんか関係なく、領民のためにその改革を実行すればいいと思いますけど‥‥ 」
「それがね‥ ダメなんですよ 」
「どうして? 」
「いくらわたしが勉強して、いろいろなことを考えても‥ 兄のリシャールや執事(アンタンダン)のティボーは‥ 『また、バカな事を言って』とか、『そんな夢のような事を言ってると、当家は破産してしまいますよ』とか言われて‥ 相手にしてくれないんです 」
「いやいやいや‥ わたしは伯爵さんが言ってる事は、バカな事じゃないし、絶対にやるべき事だと思いますけど! 」
「ホントですか? うれしいな 」
「ハハハ‥ アンタ、おもしろいよ! ホントにおもしろい! 」
「そうですか! わたしも、ヨリ殿がフランス語を話せると判(わか)ってさえいれば、もっともっといろんなお話しがしたかったのに‥‥ 本当に残念です 」
「まったくだ。 今回ばかりは、話せないフリをして失敗したよ 」
「やっと意見が合いましたね 」
「ハハハハ‥ 」
 二人は声高々と笑った。
 頼純が声を上げて笑うのは久しぶりの事であった。ロベールと話す事が楽しいと思っていた。
 夜空の星までがキラキラときれいに見えた。
 頼純は懐(ふところ)から完成したばかりの『箸(はし)』を取り出す。
「アンタにこれをやろう。 よかったら使ってくれ。 使わなくても、記念品という事で――― 」
「あ‥ ありがとうございます 」
 ロベールは嬉(うれ)しそうにそれを受け取った。
 彼にとって、頼純は初めて自分の話をキチンと聞いてくれ、それを高く評価してくれた人だった。
 ロベールは頼純と別れるのが、よけいに寂(さび)しくなってしまった。

     ×  ×  ×  ×  ×

 次の日の朝は、抜けるような青空が広がっていた。
 ロレンツォら隊商(キャラバーン)の一行は、ロベール伯爵に見送られカーンの町へと出発したのだった。