第98話 1027年 サンマリクレール修道院(1)

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 1027年 サンマリクレール修道院(1)

 翌朝、頼純と『カラス団(コルブー)』の6人は、サン・マリクレール修道院を訪(たず)ねた。アルノーについて、新たなる情報を手に入れるためである。

 サン・マリクレール修道院は、豪農フェビアン家からほど近い丘陵(きゅうりょう)の頂上に建っていた。
 頼純達はその修道院へと続くなだらかな坂道を上っていく。坂道の両側には5000本ほどのリンゴの木が植えられていた。
 すでに、それらの木からリンゴの実は摘(つ)み取られている。修道院が作るリンゴ酒(シードル)の材料とするためであろう。
 この修道院では、リンゴの木の育成から実の収穫までの農作業、その皮を剥(む)き、果汁を絞(しぼ)り、発酵(はっこう)、濾過(ろか)、樽詰(たるづ)めにいたるまで―――酒造りのすべての工程を修道士だけでおこなっていた。

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 修道院は、教会の助祭や司祭を育成する機関ではない。それらは神学校でおこなわれる。
 修道院とは、キリスト教信徒が神や聖書の意味をより深く理解するため、世俗を捨て自己の研鑽(けんさん)に励(はげ)む修行の場なのである。ゆえに、修道士の立場は聖職者ではなく、一般信者であった。
 一方、教会は、世俗の人々に神の教えを広め、日々の生活に安寧(あんねい)を与える事が務(つと)めである。
 信仰を自分に向けるか、他人に向けるか―――両者の違いはここにあった。
 当然、多くの人々を救わんとする教会の方が人々から尊(とうと)ばれた。修道院は教会よりも格下とみなされ、それを統括する修道院長も地域司教の管理下に置かれていたのだ。
 こうした修行の場である修道院は、社会から隔離(かくり)され、修道士だけで自給自足の禁欲生活を送らなければならない。
 彼らはあらゆる欲望を断ち切って、生活のすべてを祈りと労働に捧(ささ)げるのだ。
 ベネディクト修道会では、清貧(財産を持たない)、貞潔(ていけつ)(結婚しない。童貞、処女である事)、服従(指導者の命令に従う)という戒律があり、これを厳守しなければならなかった。
 祈祷(きとう)だけでも、『朝課』、『賛課』、『一時課』、『三時課』、『六時課』、『九時課』、『晩課』、『終課』と、毎日8回もある。
 以前にも記したが、この祈りの時間を知らせるために、教会や修道院の鐘は鳴らされていた。しかしながら、当時は『不定時法』を採用していたので、その間隔は一定ではない。ただ、平均すると3時間に1回は祈祷(きとう)の時間が訪(おとず)れると考えてよいだろう。
 その合間に、畑に出て土を耕したり、聖書の勉強をしたり、大工仕事をしたりするのだ。そして、3時間後にはふたたび礼拝堂に集まって1時間近い祈祷(きとう)をおこなう。
 という事は、『終課』を午後9時、次の日の『朝課』の祈祷(きとう)が午前2時だとしても、彼らは4時間ほどしか眠れなかったに違いない。日々、睡眠不足の状態で重労働をし、その後に、聖歌を歌い、聖書を読み、祈りを捧げるのだ。祈祷(きとう)中、居眠りをしない方が不思議なくらいである。
 食事は、『九時課』の祈祷(きとう)後(午後4時前後)のディナーと、『晩課』の祈祷(きとう)後(午後7時前後)のサパー―――この2回のみ。
 1197年に設立されたシトー会では、さらに過酷な労働と極端な苦行がおこなわれた。それゆえ、設立初期の修道士の多くは、30歳を迎える事ができなかったと言われる。あまりの苛烈な修行ゆえに、みな死んでいったのだ。
 修道士の労働は、農作業ばかりではない。
 修道院は教育・研究機関でもあった。彼らは様々な科学、医学を学び、さらなる研究を進めていった。
 また、診療所が作られ、貧しき者達の治療に当たった。新たな薬が開発され、薬草も育てられた。
 図書の仕事もおこなわれていた。印刷技術のない時代である。聖書は一冊一冊手書きで写され、そこに美しい挿絵(さしえ)までも描(えが)かれた。さらには、ローマ・ギリシャ時代の古典書物や、海外の―――とくにイスラーム圏の書物の翻訳・写本などがなされた。
 養蜂(ようほう)をおこなう修道院もあった。砂糖がまだない時代、蜂蜜は数少ない甘味(かんみ)であり、その巣からは高級ロウソクの原料となる蜜蝋(みつろう)が得られた。
 さらに、ワインやビールなど、酒類の生産も多くの修道院でおこなわれていた。
 とくに、『キリストの血』といわれたワインはミサに欠かせないモノで、フランスの修道院でよく作られた1品である。
 ノルマンディーでは、ブドウよりもリンゴのほうがよく育ったので、修道院ではリンゴ酒(シードル)が作られていたのだ。

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 サン・マリクレール修道院の巨大な門の前に立った頼純らは、大きな声で名乗りを上げた。
お頼み申す、お頼み申す! 我はノルマンディー大公が弟君ファレーズ領主ロベール伯爵が家臣藤原頼純と申す者。 修道院長にお目通り願いたい! 」
は~~~い‥ 」
 中から返事があり、しばらくすると大門が2ピエ(=約60センチ)ほど開かれた。扉と扉の間から姿を現したのは若い修道僧であった。彼は一行を訝(いぶか)しげに見回し、とくに頼純をジロジロと眺(なが)めた。
「いま、ヨリズミ殿と申されましたか? それは、アナタ―――!? 」
「ええ、そうです。 院長にお目通りを願います 」
 シモンと名乗った修道士は、頼純の珍妙(ちんみょう)な風体(ふうてい)から確信したのか、好奇の目を向けた。
「へ~~~え‥ では、アナタ様があのドラゴンを倒したという勇者―――おっと‥ この事は口外してはならなかったんですよね。 失礼! つまり、アナタ様がティロルドのヨリ殿って事ですね 」
 娯楽のない時代、有名人と出会う事は当分の間の話の種になる。若い修道士シモンは嬉(うれ)しそうであった。
「で‥ 本日はどのようなご用件でしょうか? 」
 頼純は3度目となる用件を口にした。
「ですから、院長にお目通りを――― 」
 シモンは頼純の言葉が終わらないうちに返事を返した。
「あ‥ それはちょっと無理ですね 」
「いや‥ 無理って――― 」
「現在、わが修道院は、院長をはじめ‥ すべての修道士が『沈黙の業』をおこなっておる最中でありまして―――いっさい、話す事ができないのです。 ですから、たとえアナタ様があの有名なお方であっても、院長様が、一端はじめられた修行を中断なさる事はありません。 どうか、お諦(あきら)めください 」
 そこへ、グラン・レイが話に割り込んできた。
「アンタ‥ いま、『すべての修道士』って言ったけど‥ アンタはしゃべってるじゃネーか! 」
 若い修道士は小馬鹿にするかのように鼻で笑った。彼は少々意地悪なのかも知れない。
「ええ‥ いまはリンゴ酒(シードル)の出荷時期ですから。その差配(さはい)をする者だけはこの修行を免除されているのです。 今年は、わたしがその担当を拝命しておりまして‥‥ 」
 頼純はちょっと困ったような表情を作って修道士に尋(たず)ねた。いつもなら、高圧的な強制捜査をするところだが、相手が修道院ではそうもいかない。
「じつは‥ 我々はファレーズ伯爵ロベール様の暗殺について調べておるところでして‥‥ ファヴロル村のアルノーという人物をどなたかお知りにならないか、お話をうかがいたいのです。 どうか、担当の方にお取り次ぎくださいませ 」
「ああ‥ 酒を運んでいたアルノーさんですか‥ 彼の何をお知りになりたいんです? 」
 頼純達はちょっと驚いた。
「え!? アナタはアルノーの事をご存じなんですか? 」
 シモンは当然のように頷(うなず)く。
「そりゃあ、知ってますよ。 一昨年もわたしが配送の当番でしたからね。 あの人、昨年お亡くなりになられたそうですね‥‥ 残念な事です 」
「では、お聞きしますが‥ アルノーが運んでいたリンゴ酒(シードル)の、ファレーズ側の受け取りは誰でしたか? 」
 頼純の問い掛けに、修道士シモンは顔を曇らせた。
「それは‥ あちらの教会の方だと思いますけど‥ わたくしも、そこまで詳(くわ)しくは存じ上げません。 むしろ、皆さんがファレーズに戻られて、司祭様に直接お聞きになったらいいじゃないですか。 そうすれば、すぐに判ると思いますよ 」
「なるほど‥! 」
 すると、今度は『カラス団(コルブー)』達がシモンに質問を浴びせた。
「では‥ アルノーと親しかった者をご存じないですか? 」
「彼は、悩みや不満を抱えていませんでしたか? 」
「彼に好きな女性は―――? 」
 『カラス団(コルブー)』らのような輩(やから)が、宗教関係者と話しをするなど、これまで1度もない事だった。
 彼らは教会に行った事もほとんどなかったし、行ったとしても司祭様の説教は難解で、まともに聞いた事などなかった。ましてや、質問をする事などあろうはずもない。
 彼らにとって、教会は清らかで高貴で、しかし堅苦しい場所だった。悪童らとは、まったく別次元の存在なのだ。
 そんな不良達が今、修道士に尋問をしていた。仰(あお)ぎ見る存在だった宗教関係者に、上の立場から質問をしている―――そのあり得ない状況に、『カラス団(コルブー)』達は興奮していたのである。
 矢継ぎ早(やつぎばや)に繰り出される質問に、若い修道士は少々たじろいでいるようだった。
「いや‥ アルノーが独身だった事くらいは知っておりますが、それ以上の細かい事情はちょっと‥‥ その手のご質問なら、運び屋仲間にでも聞いた方がよいのかも知れませんね‥‥ 」
 頼純達は早速、この修道院の運搬人達の名前を教えてもらった。
「どうも、ありがとうございました。 また、何か思い出したらご連絡ください 」
 頼純はそう挨拶すると踵(きびす)を返し、『カラス団(コルブー)』らとともに村の方へ向かおうとした。
 その時、修道士シモンが一行の背に声を掛けた。
「そういえば‥ アルノーとは何の関係もないのですが‥‥ ファレーズ教会の助祭の方―――あの、ホラ‥ お顔が少々アレの‥ ご不自由と申しましょうか、不細工と申しましょうか‥‥ 」
 修道士の声に振り返った頼純達は、眉を顰(ひそ)めた。そして、皆、それが誰かを考え込んだ。
「ブサイクって‥‥ 誰の事だ? 」
「いま、教会の助祭様は20人ほどいますが――― 」
「顔が悪いという意味ならば、『領主の館(メヌア)』の礼拝堂(シャペラ)の助祭様かなァ‥!? 」
「ああ‥ あの、いつもおどおど、ビクビクした―――ネズミみたいな顔の助祭様‥‥ 」
 そんな話をしながら、頼純達はふたたび修道士シモンの方へ戻っていった。だが、若い修道士はそれを否定した。
「いやいや‥ わたしが言っている助祭殿は、いつも堂々としていらっしゃいますよ。 気の弱そうな素振りは見た事ありません。 むしろ、助祭のくせに尊大なくらいで‥ まあ、お顔の方はネズミっぽいかもしれませんが‥‥ 」
 シモンの前に立った『カラス団(コルブー)』達は、仲間内でボソボソと話し合った。
「じゃあ、別の人? 」
「けど、ファレーズの助祭様で‥ ブサイクな顔の人って、ほかにいないでしょ‥‥ 」
「うん。 礼拝堂(シャペラ)の人以外は、ぜんぜん思い当たらない 」
「ねェ‥ 礼拝堂の助祭様って、なんて名前だったっけ? 」
「あ~~~あ‥ 滅多に人前に出てこないから、忘れちゃったなァ。 え~~~と――― 」
 頼純が、ふと思い出した名前を口にした。
「たしか‥ トマ殿―――ではなかったか‥? 」
「そうだよ、トマ様だ! トマ様! 」
 一行は自分達が考える助祭の名前をやっと思い出し、大いに盛り上がった。
 そんな頼純達に、シモンは少し声を落として、彼らの顔を覗き込んだ。
「ともかく‥ その助祭殿が7年ほど前から、ちょくちょくこの修道院を訪(おとず)れるようになりまして‥ しかも、院長様が直々に接見なさるのですよ。 これは、普通ならあり得ない事です 」
「はあ‥!? 」
「そりゃあ、そうでしょう。 ここは300人以上が寝起きをともにする大修道院なんです。いくら教会優位とはいえ、院長様と助祭殿では格が違います。 とうぜん‥ 最初は院長様が相手にするはずもなく、門前払いされていました 」
「‥‥‥それで? 」
「ところが、その次の年には院長様が直々にお会いになり、3年目からは大歓迎されるようになりました。 大修道院長様が街の教会の助祭殿を歓迎するなんて―――これはどう考えても、おかしいじゃないですか 」
 頼純達も何か不審なものを感じ取った。
「たしかに‥! 」
「それは、どうしてでしょう? 」
 修道士シモンはゆっくりと首を振った。
「さあ‥ それはわたしにも判りません。 ただ――― 」
「ただ―――? 」
 頼純達は修道士を見詰めると、次の言葉を待った。
 シモンは言っていいものかどうかしばし悩んだ末に、ポツリとつぶやいた。
「サン・マリクレールのリンゴ酒(シードル)が突如、びっくりするくらい美味しくなったのも、ちょうどその頃からなのです 」


「お待ちください。 お待ちください! 」
 修道士シモンが必死に止めるのを無視して、頼純らは修道院の薄暗い廊下をズンズンと進んでいった。
「なりませぬ。 院長様は誰ともお会いにはなりませんから。 『沈黙の行』は途中でやめられないのです 」
 シモンは余計な事を話ししてしまった事を後悔していた。相手がドラゴン退治の勇者様だったのでうれしくなり、つい口を滑らせてしまったのだ。
 静まり返った修道院の中を、若い修道士の大きな声が響いた。
 その声に、何事かと部屋から顔を出す修道士や掃除の手を止める修道士達。やがて彼らの目に怒りが映し出されていく。だが、その怒りはシモンに向けられたものであった。
 『沈黙の行』をおこなっていなくとも、修道院内は常に静謐(せいひつ)に満ちていなければならない。咳をする事さえはばかられた。ましてや、廊下で大声を出すなど絶対にあってはならないのだ。
 しばらく歩くと、頼純達は明るい中庭に出た。周囲を見回し、ふたたびその回廊(かいろう)を進んだ。
 はじめて入った建物だが、一番偉い者が寝起きする場所は察しがつく。廊下が違うのだ。最も広く、丁寧に清掃されている。
 頼純が進んだ廊下の先に、法衣をまとった初老の男が立っていた。彼が修道院長であろう。
 頼純は彼の前に立つと尋ねた。
「アナタが院長様ですね? 」
 初老の男は無言で右手を差し出し、頼純達を自分の執務室へといざなった。