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1026年 ルーアン城・広間(3)
『ローマ教皇(きょうこう)庁』という言葉に、広間の誰もが言葉を失っていた。冷(ひ)や水を浴びせられ、もはや浮かれ気分の者など一人としていなかった。
当時のローマ教皇庁は、その百年後のような絶対的権力はまだ持っていなかった。
しかしながら、神に最も近い場所として、人々の信任厚く、権威ある機関であった事は間違いない。
その教皇庁の機嫌を損(そこ)ねるという事に、人々は恐れおののいたのだった。
「だから、違うんですって‥! 」
静まり返った広間に頼純の声が響いた。
苦笑いを浮かべた頼純は、エドゥアール(英=エドワード)の誤解を解(と)こうとした。
「俺は何度も言ってますけど‥ これは、『ドラゴン』なんかじゃなくって、ワニってー生き物なんです! インドやサラセン国には普通にいる動物です。 犬や猫と同じだとは言いませんけど‥ このフランスにだって、熊とか狼とか、それからサメとか―――人を食う動物はいくらでもいるでしょう!? コイツも、ただ異様に大きくなっただけで、それらと同じ動物なんですよ。 ましてや神の敵―――『悪魔の使い』だなんて、まったくのデタラメですから 」
説明をする頼純を指差して、アルフレド(英=アルフレッド)が素っ頓狂(すっとんきょう)な声を上げた。
「に‥ 兄さん、兄さん‥ フラ‥ フランス語をしゃべっている! 異教徒があんなに上手にフランス語をしゃべってるよ―――わたし達よりうまいくらいだ‥ 」
「そんな事はどうだっていい! いま、問題なのはあのドラゴンの事なんだ! 」
見当違いな事に驚く弟アルフレドを叱(しか)りつけたエドゥアールは、頼純に顔を向けると彼の言葉を否定した。
「アナタのおっしゃった事は間違っています。 万物を創造された神が、このように醜(みにく)く、邪悪なる生き物をお作りになられるハズがありません! これはどう考えても、悪魔が生み出したモノに違いないのです 」
白く弱々しい体躯(たいく)にもかかわらず、頑(かたく)なに自説を主張するエドゥアールに、頼純は困惑してしまう。
「どうにも、弱っちゃうねェ‥ 自分の知るモノだけが世界のすべてだと思ってやがる。 こりゃ、どうしようもネーや! 」
そこへ、リシャール大公がエドゥアールを取りなそうとした。
「エドゥアール殿‥ ご心配はまことにありがたいのですが、そう案ずる事もございますまい。 この件については、わたくしの方から教皇ヨハネス19世猊下(げいか)にきちんとご説明申し上げますので‥‥ 」
「し‥ しかし‥ 」
エドゥアールはそれでも納得のいかない様子であった。
その時、上座(かみざ)に鎮座(ちんざ)していたグンノールが、穏(おだ)やかながら威厳(いげん)に満ちた声を放った。
「リシャール‥ エドゥアールの進言をあだや疎(おろそ)かに考えてはならぬぞ。 彼らの深い信心があってこそ、与えられた忠告じゃ。 どのようにするか、もそっとよく考えるのじゃ 」
それはかなり高圧的な発言だった。
満座(まんざ)の前で祖母より注意を受けたリシャール3世は、その悔しさを顔には出さず、グンノールの言葉に従った。
「はい‥ お祖母(ばあ)様‥! 」
それでもリシャール大公の不快感は、空気を伝わって広間の人々へと届いていた。広間はある種の緊張感に包まれていった。
その緊張を解(ほぐ)そうとしたのか、はたまたただの呑気者(のんきもの)なのか、アルフレドがリシャール大公に質問をした。
「そういえば‥ この事はフランス国王には、もうご報告なされたのでしょうか? 」
家臣らの前で恥をかかされ、いまだ立ち直れていないリシャール3世は、その問いに対しても憮然(ぶぜん)とした面(おも)持ちで返した。先ほどから、ノルマンディーの政治・外交に口を挟(はさ)もうとするイングランドの王子達に、いささかの苛(いら)立ちを感じていたのだ。
「たとえ国王といえど、かような事までコチラからご報告する義務はないでしょう。 向こうから問い合わせが来れば、きちんとお答え申し上げますけどね‥! 」
アルフレドは、聖職者特有の頭頂部を丸く剃った髪型(トンスーラ)で深く頭を下げた。
「これは、失礼な事を口にして、申し訳ございません。 ただ、来年はアナタ様も王女アデル様とご結婚なさる身。 フランス国王は義父となられるお方ですので、先(さき)んじてご報告なさった方が心証がよいのではと老婆心(ろうばしん)を抱(いだ)いたまでの事。 どうか、お許しくださいませ 」
確かに、アルフレドの言葉にも一理あった。富も領土も権力もさして持たない、『名ばかり』のフランス国王を、大国ノルマンディー公国のリシャールが軽んじていた事は確かだったからである。
「なるほど‥! お二人のお言葉、肝(きも)に銘(めい)じ‥ このリシャール3世、善処(ぜんしょ)する事といたしましょう 」
リシャールはアルフレドの忠告を素直に聞き入れた。
そんなリシャールの謙虚(けんきょ)な態度に、グンノールは大いに喜んだのだった。
「それがよい、それがよい! さすがはノルマンディー大公じゃ! これでノルマンディーも安泰に違いない! カッカッカッカ‥ 」
リシャールは顔には出さなかったが、祖母グンノールの言葉にいちいち振り回される宮廷政治にうんざりしていた。
× × × × ×
ルーアン城の中には、リシャール3世らの継母(ままはは)で先年亡くなったポッパと、異母兄弟であるモーガー、ギヨームが住む別棟(べつむね)があった。
宮廷がある領主の館(メヌア)とはかなりの格差がある建物である。
その一室で、幼き小公子達のお付きの者5人が酒を酌(く)み交(か)わしていた。
モーガーの子守役であるヴィクトールは、テーブルのコップにリンゴ酒を注ぐとそれを一気にあおった。そして、酒臭い溜息(ためいき)とともに愚痴(ぐち)を吐き出したのだった。
「まったく、リシャール様ときたら‥ いくら母君様が違うとはいえ、モーガー様、ギヨーム様にあまりのご仕打ちじゃ! 」
リンゴ酒をチビチビ舐(な)めているヤーンも、涙まじりに頷(うなす゜)いた。
「うむ‥ このような、冷や飯食いでは、お二人はどこの領地も与えられず、10歳ともなれば修道院へ放り込まれるは必定(ひつじょう)。 ほんに、おいたわしや、おいたわしや‥ 」
だが、テーブルの反対に坐っていたギヨームの教育係であるガルニエが二人を慰めた。
「まあまあ‥ そう、案ずる事もあるまい‥! 我らにはクリストフ殿がついておられるではないか。 クリストフ殿は母君ポッパ様がアンベェル領からお輿(こし)入れなさった時よりのご寵臣(ちょうしん)―――最も、ご信任の厚かったお方じゃ! 」
つまみの魚の酢漬けを口に放り込みながら、バンワも大いに同調した。
「ほんに‥ クリストフ殿なら、ノルマンディー諸侯からも一目置かれておられまする。 必ずや、幼きモーガー、ギヨームご兄弟のご復権を果たされるに違いありません 」
「ハハハハ‥ それは、いささかわたくしを買いかぶりすぎでございましょう 」
部屋の奥、窓の傍(かたわ)らに立って四人の話を聞いていたクリストフが、はじめて口を開いた。彼はモーガー、ギヨーム兄弟の侍従(じじゅう)であり、四人の上司でもあった。昨日、広間で勇者『ヨリ』を無礼者呼ばわりした人物でもある。
「わたくしにもそこまでの力はありませぬぞ 」
そう言いながら、クリストフはガラス替わりに窓にはめ込まれている鹿の角(つの)を指でなでてみた。
当時、ガラスはたいへん高価な品で、王侯(おうこう)や教会しか使う事が出来なかった。そのため、貴族や商人達は鹿や牛の角(つの)を代用品として窓に取り付けていたのだ。
それは、3ヶ月ほど水にさらして柔らかくした角(つの)を、幅2プース(約5.1センチ)ほどに切り開いて平らにし、さらに薄く削ったモノだった。
こうしてできた飴(あめ)色の角(つの)の板は、ひとつの窓に何十枚と必要だったが、ガラスよりもはるかに安く、光もそこそこ通し、たいへん丈夫であった。
その角板(つのいた)もつけられぬ庶民達は、防水用の油を塗(ぬ)ったリネン布を窓に張り付けていた。
そして、人口の大半である最も貧しい者達の家には、鎧戸(よろいど=雨戸)があるだけで雨風を遮(さえぎ)る窓はなかった。彼らは、強い雨の日や気温が低い冬場などは、鎧戸(よろいど)を開ける事が出来ず、日の差し込まない真っ暗な中で生活するしかなかったのだ。
リシャール大公らが住む領主の館(メヌア)の窓は、ほとんどがガラス張りであるというのに、モーガー兄弟が寝起きする別棟はすべて角(つの)張りの窓であるという事が、クリストフには気に入らなかった。そこに大いなる差別を感じていたのだ。
薄笑いを浮かべたクリストフは、4人が坐るテーブルの方へゆっくりと歩み寄ってくる。
「皆の衆も、さぞやご心配でございましょうなァ。 このままご兄弟が冷遇(れいぐう)され続けたのでは、生涯貧乏暮らしをせねばならないのですから♡ 」
クリストフの皮肉に、四人は首を横に振って否定した。
「い‥ いや‥ わたくし達は私利私欲のために、かような事を申し上げておるのではございませんぞ! 」
「そうですとも! モーガーご兄弟の行く末を案(あん)ずればこそ――― 」
だが、クリストフは四人の言葉など信じてはいなかった。彼は目を細めると四人を見据えた。
「とはいえ‥ モーガー様、ギヨーム様が修道院にでも押し込められれば、我々は職を失う可能性だってあるのですぞ! まぁ、間違いなくこの城からは放り出される事でしょう‥ 」
「え!? 」
その言葉に四人はギョッとした。
そして口々に、自(みずか)らの保身をクリストフへ懇願(こんがん)し始めるのだった。
「そ‥ それは困る! わたくしは、若い妻をもらったばかりで、金が掛かってしょうがないのです。 無職になると、何と言われるか‥‥ 」
「ワタシも困ります。 博打の借金がかなりあり、職を失えば賭場のごろつきから殺されてしまいます 」
「私は家を建てたばかりで‥ 収入がなくなると、その借財(しゃくざい)が――― 」
「クリストフ様‥ なにとぞ、我らが職を失いませぬよう、お力添(ぞ)えをくださいませ 」
泣きつく彼らの態度を確認し、クリストフは静かな声で計画を持ちかけた。
「そうですなァ‥ 我らが職を失わぬタメには、モーガー様ギヨーム様のご兄弟に、貴族の地位を確保していただかねばなりますまい。 そのためには、場合によっては、大公様にご退陣(たいじん)いただく必要もあるやもしれませぬぞ‥! 」
声を潜(ひそ)めたクリストフの言葉に、お付きの者四人は愕然(がくぜん)とした。そのあまりにも衝撃的な内容は、彼らに息をする事さえも忘れさせてしまうほどであった。
「そ‥ そんな‥ 」
「リ‥ リシャール様にご退陣いただくって――― 」
「それは、内乱(クーデター)を起こすという意味ですか? 」
クリストフは、怯(おび)えおののく四人を安心させるため、穏やかにほほ笑んだ。
「いやいや‥ わたくしは、そういった陰謀を企(くわだ)てるつもりはございませんよ。 もし、そのような事が露見(ろけん)すれば、我らはみな処刑されてしまうのですから。 危険です、危険です! 」
四人は不安げな表情でクリストフに尋(たず)ねた。
「で‥ では、いかようにして‥? 」
クリストフはゆっくりと四人の顔を見回した。
「このところ‥ イングランドのゴドウィン卿から、このわたくし宛てに幾度(いくど)となくご連絡を頂戴(ちょうだい)しております! 」
四人は3度目の驚きの表情を作った。
「ゴ‥ ゴドウィン卿とは‥‥ あのクヌート大王の側近でいらっしゃる、イングランド随一の実力者、ウェセックス伯(コント)ですか? 」
クリストフは自信タップリに頷(うなず)いた。
「そうです! そして、我がノルマンディーの政治は、力なきフランス国王よりも、大国イングランド王のご意志によっていかようにも変化するのですぞ! 」
「おおお‥ 」
四人は歓喜(かんき)に目を輝かせた。