第57話 1026年 ファレーズ街道

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 1026年  ファレーズ街道


 翌日の日が昇る頃、頼純とティボー、その兄であるエルキュールの三人は、ファレーズの街を出発し、エレーヌの森を目指(めざ)した。
 頼純はロベール伯から贈(おく)られた熊皮のクローク(マントの形をした外套)を着ていた。後方にスリットのないクロークなので、腰に吊(つ)った太刀(たち)の鐺(こじり=さやの尖端)がぶつかって少々収まりが悪かったが、寒さにはとてもかなわなかった。クロークは体のみならず、心まで温めてくれるようだった。

 こうして、意気揚々(いきようよう)と出発した頼純らであったが、早々にその道行きが容易でない事に気づかされた。エルキュールの足がどうにもおぼつかないのだ。長剣(エペ)の重さがかなり負担になっているようで、足元がフラフラしていた。しまいには、剣を吊った腰のベルトまで緩(ゆる)んできて、鞘(さや)の尖端が地面をズルズルと引きずるという始末だった。
 見るに見かねた頼純が、親切心からエルキュールに声を掛けた。
「じいさん‥ アンタ、その剣は重いだろう? よかったら、俺が担(かつ)いでいこうか? 」
 だが、エルキュールはその言葉に烈火(れっか)のごとく怒った。
「ナニを申すか、この愚か者め! 長剣(エペ)は騎士(シュヴァリエ)の魂ぞ。 他人に預けるなど、できようはずがなかろう! 」
「けど、けっこう重そうだし‥ 旅だっていっこうに進まねぇじゃネーか。 こんな調子じゃ、二日かかったって森にはたどり着けネーよ 」
「黙らっしゃい! これ以上、四(し)の五(ご)の申すと、おぬしを斬るぞ! 」
 エルキュールが長剣(エペ)の柄(つか)に手を掛けた。
「判った、判った! だったら好きにすればいい 」
 老人ともめても仕方がないので、頼純は申し出を引っ込めた。そして、ティボーをジロリと睨(にら)んだのだった。
「へへへへ‥ 」
 ティボーはまた愛想(あいそ)笑いでそれを誤魔化(ごまか)そうとした。
 
 しかし、1マイル(1.5キロ)も進まぬうちに、エルキュールの息は上がり、歩みはさらに遅くなった。何度も何度も立ち止まり、目は虚(うつ)ろになっている。
 エレーヌの森は、本来なら半日の道のりなのだが、このままでは三日かかってもたどり着けそうになかった。
「どうすんだよ? このままじゃ、往復するだけで1週間かかっちまうぞ!」
 頼純はエルキュールに聞こえないように、小声でティボーに文句を言った。
 ティボーも、もはや愛想笑いで切り抜けられる状況ではない事ぐらい充分に判っていた。彼とて、私用で長期間休む事など出来ようはずがない。
 新年の祝賀の準備もある。こればかりは彼が取り仕切らねばならなかった。さらに、直接の関係はないが、ロベール伯爵の兄、ノルマンディー大公リシャール3世とフランス国王の長女、アデレード王女との結婚式もそのあとに控えている。
 となれば、彼が休めるのは一日、二日が限度であろう。
「じゃあ‥ わたしがいったん城に戻って、馬を連れてきますので‥ ちょっとこのあたりで、待っていてはもらえませんでしょうか? 」
 ティボーが頼純に小声で持ちかけた。
「はあ‥!? 俺達二人だけで残るのォ‥? 」
 不満そうな声を上げる頼純を無視して、ティボーはエルキュールに話し掛けた。
「兄上、兄上‥ わたくし、ちょっと所用(しょよう)ができましたので、少しの間、城に戻ってまいります。 ご迷惑でしょうが、わたくしが戻ってくるまで、ここでお待ちください 」
 丁寧(ていねい)なティボーの申し出に、エルキュールはいささか渋い顔を作った。
「また忘れ物か? お前は幼き頃から忘れ物ばかりしておる。 そういう事では出世できぬぞ! 」
 そう言いながらも、エルキュールは道端にさっさと腰を下ろした。
「いいだろう。 兄は待っておるゆえ‥ 早(は)ように忘れ物を取ってくるがよい 」
「あ‥ ありがとうございます。 すぐに戻ってまいりますから。 じゃあ、頼みましたよ 」
 ティボーは兄を頼純に託(たく)すと、中年太りの体を揺(ゆ)らして、今来た道を小走りで戻っていった。

 座り込んだエルキュールは大きな溜息をつくと、青空を見上げている。
 頼純はとくに話す事もなく、所在(しょざい)なげに立ち尽(つ)くしていた。
 それでもなんとなく気になって、エルキュールをチラチラと窺(うかが)っていると、彼は身体を小刻(こきざ)みに震わせ始めた。地面から這(は)い上がってくる冷気が堪(こた)えるのだろう。

「なんだか今日は暑いなぁ‥ 」
 頼純は芝居がかった口調でそう言うと、毛皮のクロークを脱ぎ、エルキュールの肩に掛けてやった。
「爺さん‥ これ、しばらく預かっといてくれ。 俺、暑がりだから‥ こういうの邪魔(じゃま)なんだよ 」
 こうでも言わないと、天邪鬼(あまのじゃく)な頑固爺(がんこじい)さんは素直にクロークを着てはくれないと思ったからである。
「しょうがないのォ‥ まったく、迷惑な話じゃ‥! 」
 そう言いながらも、エルキュールは嬉(うれ)しそうにそのクロークに包まれた。温かそうである。眉間(みけん)に深く刻(きざ)まれたしわも幾分(いくぶん)和(やわ)らいだかのように感じられた。
「ふむ‥ おぬしの剣は変わった形をしておるのォ‥? 」
 しばらくすると、頼純の太刀(たち)に気づいたエルキュールがそう話し掛けてきた。
「ちょっと抜いて、見せなさい 」
「は‥ はあ‥ 」
 寒空の下、頼純は渋々小烏丸(こがらすまる)を鞘(さや)から抜いた。
 エルキュールは、頼純が持つ小烏丸(こがらすまる)をじっと見詰めた。
「ほう‥ これはよく斬れそうじゃ! 刃が反(そ)っておるのは、弧(こ)を描(えが)いて斬るためか? ちょっと、貸してみなさい 」
 頼純は武人として、己(おのれ)の得物(えもの)を他人に預けるのはひじょうに嫌いであった。その一方で、『自慢の太刀(たち)』をベタ褒(ぼ)めしてくれる老人に対し、抗(あらが)う術(すべ)も持ってはいなかったのだ。
「じゃ‥ じゃあ‥ ちょっとだけ‥‥ 」
 エルキュールは手渡された小烏丸(こがらすまる)をマジマジと観察する。
「むむ‥ 軽い! 材は固くて粘りのある良質の鋼(はがね)のようじゃ。 それを剃刀(かみそり)のように、鋭角にきれいに磨(と)いである。 しかも、その薄い刃先は刃こぼれひとつおこしておらん。これは、日々、丁寧(ていねい)に砥石(といし)を掛けておるからに違いない 」
「え‥ へへへ‥ まあ‥‥ 」
 頼純はエルキュールの目利(めき)きに恐れ入った。ただのボケ老人とは違うようだ。
 エルキュールは小烏丸(こがらすまる)を陽光に翳(かざ)し、感動にも近い声を漏(も)らした。
「このように美しい剣を見たのは初めてじゃ。 まるで、神から遣(つか)わされた聖剣のごときに神々(こうごう)しい‥! 」
「あ‥ ありがとうごさいます‥ 」
 頼純もそこまで言われるとさすがに嬉しかった。
 ところが、エルキュールは突如、その顔に奇妙な笑いを張り付けた。
「このような名剣を頂戴(ちょうだい)してかたじけない。 今宵(こよい)の夕餉(ゆうげ)はこの刀で肉を切り、魚を切ってしんぜよう 」
 そう言うと、エルキュールは腰の剣を引き抜き、その鞘(さや)に小烏丸(こがらすまる)を無理やり押し込もうとする。
「ちょ‥ ちょっと返して! そんなに無理矢理に押し込んじゃダメだって! 形が違うんだから入らネーよ! 」
「放せ! 放さぬか! 」
「これは、アンタにあげたモンじゃないし‥ 俺の大切な刀なんだから‥ 」
 エルキュールは小烏丸(こがらすまる)を取り上げようとする頼純の手にガブリと噛(か)み付いた。
「イテテテテテ‥ 」
 頼純が悲鳴を上げようとも、エルキュールは噛(か)み付いた歯を離そうとはしない。年の割に、歯はずいぶんと丈夫なようだった。
 痛みにイラッとした頼純は、老人の顔をグッと押さえつけて、力ずくで太刀(たち)を彼の手からもぎ取った。
 そして、飛ぶようにして、エルキュールから数ピエ(1~2メートル)後ずさったのだ。
 彼は頼純を獣のような目で睨(にら)み付けていたが、それ以上は追い掛けて来なかった。
 一安心した頼純は、太刀(たち)を腰の鞘(さや)に納める。
「ったく‥! なかなかの目利(めき)きだと感心してたら、突然ボケちまうんだから‥ ビックリするわァ‥! 」
 頼純は、噛(か)まれてヒリヒリする手をさすりながら、ふとエルキュールに視線を戻した。すると彼は、たったいま頼純と争(あらそ)った事などなかったかのように、穏(おだ)やかな表情でふたたび空を見詰めていた。
 そんな姿を見て、頼純は急に目頭(めがしら)が熱くなった。
 おそらく、若き日の彼はなかなかの騎士(シュヴァリエ)であったに違いない。それは彼が醸(かも)し出す雰囲気からも十二分に知る事ができる。さきほどの剣の目利(めき)きもそうだが、その立ち居振る舞いにも武人として隙(すき)がなかった。だが、そんな騎士(シュヴァリエ)でさえも、寄る年波には勝てないのだ。
 かつては軽々と振り回していたはずの長剣も、今は持ち歩く事さえままならない。頑迷(がんめい)で気位ばかりが高く、突然ボケに襲われる。
 それは哀れであったが、人の自然な摂理(せつり)なのである。自分も剣や病(やまい)に倒れる事なく、エルキュールほどの歳まで生き長らえる事ができれば、きっとそうなるに違いなかった。
 頼純は空を見上げるエルキュールに何か言葉を掛けたくなった。
「ところで‥ 爺さんは何のためにあの森に行くんだい? 」
 そう尋(たず)ねられて、エルキュールはちょっと寂(さび)しそうに目を伏せた。
「うん‥ そうじゃなぁ―――」
 しばらくの間(ま)のあとに、ゆっくりと言葉を口にした。
「この間、血を吐いてしもうてのォ‥ それで医者に診(み)てもらったんじゃが‥ ヤツの話では、ワシはもう長くないらしい。 あと数ヶ月の命だそうじゃ‥ 」
「え!? 」
 頼純はまずい事を聞いてしまったと、顔を顰(しか)めた。
「まぁ、この歳じゃとて‥ 死ぬのは当たり前の事なのじゃが、その死の前にどうしても初恋の女性(ひと)に会いとうなってしもうてなァ‥ それでわざわざルーアンからやって来たというわけじゃ。 恥ずかしながら‥ 色ボケじゃよ、色ボケ! 」
「そ‥ そうだったんですか‥‥ だから、弟さんもあのように必死になって俺に頼まれてたんですね‥! 」
「エレーヌの森のシュザンヌ―――おぬし、聞いた事はないか? 」
「おお‥ あの方ですか‥!? 聞いた事があるどころか、先日命を助けていただきましたよ 」
「ほう‥ それはまた、奇妙な巡(めぐ)り合わせじゃ。 あの人が、あんたを助けるとはなァ‥ 」
「ハハハ‥ ですね 」
「ところで‥ おぬしはテュロルドじゃろう!? 今日はどうしたんじゃ? 」
 頼純は自分の顔を指差し、あらためて自己紹介した。
「え!? テュ‥ テュロルド‥? いや‥ 俺は藤原頼純(ふじわらのよりずみ)って言いますけど‥‥ 」
「何を言うか、お前はテュロルドじゃ! テュロルドと同じ顔をしておるではないか? 」
「あああ‥ ま‥ まあ‥ テュロルドでもいいですよ。 じゃあ、テュロルドって事にしておきましょう! その人が誰なのかぜんぜん知りませんけどね‥ 」

 などと話しているところに、やっとティボーが馬を連れて戻ってきた。
「兄上‥ お待たせいたしました。 ついでに、馬も調達してまいりましたので‥ どうかこの馬にお乗りください 」
「余計な事をするでない! 情けは無用じゃ 」
「何をおっしゃいますか。 騎士(シュヴァリエ)とは馬に乗るものですぞ。 徒歩(デング)公でもあるまいに、馬に乗らねば笑われまするぞ 」
「‥‥‥ 」
 ティボーは、馬の足元に四つん這(ば)いになった。
「ささ、兄上‥ 我が背を踏み台にしてお乗りください 」
 そんなティボーの姿に、頼純は普段とは違う彼の一面を見た気がした。
 再三の弟の頼みに、エルキュールは苦々しい顔で頷(うなず)いた。
「そこまでお前が申すのならいたし方あるまい。 馬に乗ってしんぜよう 」
 そう言うと、エルキュールは弟の背中に乗っかり、さらに馬に跨(また)がろうとした。
 しかし、大股(おおまた)を開いて馬の背に右足を掛けたまではよかったが、そこから先がよじ登れない。
「やや‥ これは、おかしき事じゃ。 体が上がらぬぞ。 馬が動いておるのか? それとも並ならぬ大きさの馬なのか? 」
 などと言いながら、ウンウンと唸(うな)っている。
 踏み台のティボーが、下から頼純に声を掛ける。
「ヨリ殿‥ 兄上の尻を押してくだされ 」
「あ‥ はいはい。 ただいま! 」
「テュロルド‥ もっと押してくれ‥! 」
 頼純がエルキュールの尻をグイッと押し上げると、彼は何とか鞍(くら)の上に座る事ができた。その途端、彼の顔がほころんだ。
「おお‥ これはよき眺(なが)めじゃ! やはり馬はよい。 どれ、ひとっ走りしてみるか 」
 慌てて立ち上がったティボーが、手綱(たづな)を掴(つか)みそれを制した。
「あ‥ 兄上‥ それはご勘弁ください。 我々を置いて先に行かれては困りまする。 わたし達は馬ほど早くは走れぬのですから 」
 このまま馬で走って行かれては、エルキュールは確実に行方不明になってしまう。
 だが、弟の心配に気づかぬエルキュールは、馬上で得意げに大笑いをした。
「カッカッカッカ‥ そうであった、そうであった。 安心せい、お前らを置いてはゆかぬぞ 」
「ご配慮、感謝いたします 」
 ティボーは引きつった笑顔を兄に返した。
「いやはや‥ アンタもいろいろと大変だねェ‥! 」
 頼純は、この旅が容易でない事を思い知らされた。


 馬に乗った途端、彼らの進行速度は上がった。
 昼過ぎにはもう、エレーヌの森の入り口までたどり着く事ができたのだ。
 三人はそこで、パンとソーセージ、リンゴ酒(シードル)の簡単な昼食をとって、さらに森の中へと入っていったのだった。
 エレーヌの森は、アンディーヌの森に比べるとはるかに小さく、道もしっかりとしている。馬で進むのに何の不自由もなかった。
 それでも小一時間ほど進むと、木々は鬱蒼(うっそう)とし、怪しげな空気が漂(ただよ)ってくる。小道を通る旅人は誰もいない。

「―――待て! 」
 突如声を掛けたのは、馬上のエルキュールであった。
 何事かと頼純とティボーは顔を見合わせた。
 やがて、頼純も何かを感じ取ったのか、太刀(たち)の柄(つか)に手を掛けた。
「おっさん‥ 馬の手綱(たづな)をしっかり持って、けっして放すんじゃネーぞ! 」
 すぐに、周囲の藪(やぶ)がガサガサと音を立て始めた。
 そこから現れたのは5人の汚(きたな)らしい男達である。何日も洗っていないだろう汚(よご)れた顔や手足をした彼らは、服はボロボロで、中には裸の体に毛布を巻き付けただけの者もいた。そんな彼らの手には長剣(エペ)や斧(おの)が握られている。間違いなく山賊である。
「へへへへ‥ いいトコに通りかかってくれたぜ♡ 」
「この森は俺達の縄張りだ! 通りたかったら通行料を置いてきな! 」
「馬と有り金‥ 剣とその上等なマントも―――すべて置いていきやがれ!」
 頼純はそれには返答せず、黙って腰の小烏丸(こがらすまる)を抜き払った。
 山賊達は下卑(げび)た笑いを浮かべてさらに近づいてくる。
「何だ、コイツは? 妙(みょう)ちくりんな格好しやがって! 」
「テメーは、このジジイの下僕(げぼく)なんだろうが!? すっ込んでろ‼ 」
「それにしても、奇妙な面(ツラ)だな。 テメーは人間か? それとも小鬼(ゴブラン)か? 」
 その冗談に山賊達は腹を抱えて大笑いをした。5人対3人―――いや誰が見ても、5人対1人にしか見えない。だから、余裕にあふれているのだ。
 その時、顔がモジャモジャ髭(ひげ)で埋まった男が、さらに前へ進み出た。そして、一同に命令したのである。
「面倒くせェや! かまわネーから、みんなブッ殺しちまえ! 」
 どうやら、彼がこの一団の小頭(こがしら)のようであった。
 頼純は太刀(たち)をスッと正眼(せいがん)に構えると、ゆっくりと視線を動かし、山賊達の微細(びさい)な動きを観察した。
 だが、いつ馬から下りたのか、エルキュールも長剣(エペ)を抜いて、山賊達に向けて構えていた。
「テュロルド‥ 安心せい、このワシがついておるぞ! 」
 まずい―――頼純は緊張した。
 エルキュールに下手(へた)に動かれると、頼純が守備しなければならない範囲が広がるからであった。