第105話 1027年 ファレーズの街(3)


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 1027年 ファレーズの街(3)

「急げ! すぐにトマを捕縛(ほばく)するぞ 」
「は‥ はい! 」
 頼純の命令に、ゴルティエ、グラン・レイ、ドニ、ラウル、ニコラの5人は応(こた)えた。
 松明(たいまつ)を手にした彼らは、教会から『領主の館(メヌア)』の礼拝堂(シャペラ)へと急行していた。
 ファレーズ教会への、『トマ逮捕』の報告は失敗に終わった。 だが、もはや躊躇(ちゅうちょ)はできない。

あ! 」
 礼拝堂(シャペラ)に到着した頼純達が驚きの声を上げる。
 入り口付近で張り込みをしていたジル、ルネが倒れていたからだ。
「こちらには、マルクとリュカが―――! 」
 ゴルティエが報告する。
 そして、プチ・レイの姿も発見された。
 むろん、皆、死んでいるワケではない。 流行病(はやりやまい)に罹患(りかん)し、眠っているだけだった。
「ともかく、礼拝堂(シャペラ)に踏み込め! トマを確保するんだ! 」
 頼純の指示が飛ぶ。
 一同は仲間をその場に残して、礼拝堂(シャペラ)内へとなだれ込んだ。
「いたか? 」
「探せ、探せ! 」
「見落とすなよ。 必ず、捕縛(ほばく)するんだ! 」
 暗闇の中、松明(たいまつ)の炎が行き交(か)い、怒声(どせい)が交錯(こうさく)した。
 頼純達は礼拝堂(シャペラ)の隅々まで徹底的に捜索した。
 だが、そこにトマの姿はなかった。 もぬけの殻だったのだ。
「やはり、逃げられていたか‥ 」
 頼純が頭を抱えていると、グラン・レイが叫んだ。
「そういや、ブノアはどこに行った? プチ・レイと一緒に張り込んでいたはずだぞ 」
 トマ同様、ブノアの姿も見つからなかった。
「ブノアは行方不明か‥‥? 」
 ゴルティエ達の不安をよそに、頼純は彼らに発破(はっぱ)を掛けた。
「ともかく、トマを捕まえなければ何も始まらない! ありとあらゆる場所を探索(たんさく)するんだ! 」
 その夜は新月で、さらにぶ厚い雲が空を覆(おお)っていた。 星々の光はおろか、月光でさえ届かない真っ暗な夜だった。
 そんな中、頼純達は松明(たいまつ)を頼りに、礼拝堂(シャペラ)の内外はむろんの事、館の周囲に至るまで、少ない人数ながらも、執拗(しつよう)に助祭トマを探し続けたのだ。

 しかし、彼を見つける事はやはりできなかった。
「だめか! 」
 一同が徒労感(とろうかん)に包まれていると、頼純が忌々(いまいま)しげな声を掛けた。
「クッソォ‥ しかたがねェ。 一旦、館(やかた)へ戻ろう。 伯爵の身が心配になってきた。 何かあってからでは遅(おせ)ぇからな 」
「‥‥‥ 」
 『カラス団(コルブー)』達は黙って館(やかた)へ足を向けた。
「ただし、グラン・レイモンド‥ それから、ニコラ! オメーらは城下の様子を見てきてくれ 」
 頼純の言葉に、振り返ったグラン・レイ達は戸惑(とまど)っているようだった。
「え!? 城下を―――ですか? 」
「もしや、トマが城下に隠れていると? 」
「いや‥ 街の人達の様子を見てきて欲しいんだ 」
「街の人‥‥? 」
 頼純は静かに頷(うなず)いた。
「ああ‥ さっき、教会の許可を受けに街へ行ったのは夕方だ。 あん時ゃ、まだ4割ほどの人達は無事だった。 だが、日もすっかり落ちた今、街は静まり返ってる。 おそらく、ほとんどの者が眠り病に落ちたに違(ちげ)ぇねェ 」
「は‥ はい‥ 」
「この病は、突然発症し、その場に倒れ込む。 となりゃあ、床なんかに頭を激しくぶつける奴もいるだろう。 屋外で俯(うつぶ)せに倒れちまうと、顔面を水や泥で塞(ふさ)がれて窒息する可能性だってある。 そして一番怖(こえ)ェのが火災の発生だ 」
「なるほど‥ つまり、俺達はそうした異変を確認してくるワケですね!? 」
「そういう事だ‥! できるな!? 」
「わっかりました! 」
「お任(まか)せください! 」

     ×  ×  ×  ×  ×

 ロベール伯爵の寝室(シャンブル・ア・クシ)では、寝台(リ)にエルレヴァが横たわっていた。

 昼過ぎに眠り病に陥(おち)てしまった彼女は、ロベール伯爵に抱きかかえられてここに寝かせられたのだ。
 そして、そんな彼女の胸の上には、息子のギヨームがのせられていた。
 領地を脅(おびや)かす前代未聞(ぜんだいみもん)の大事件に、ロベールはお腹をすかせて泣く我が子にかまってやる事ができなかった。
 2千人を越す領民が、バタバタと倒れているのだ。 そして、その被害はこれからさらに増えると思われた。
 領主としては、息子の命よりも、数千の民の命を優先させなければならない。
 そこで彼は、妻の胸をはだけ、その乳首に息子を吸い付かせたのである。
 眠ったままでも、エルレヴァのお乳は出ていた。

 はるか古代から(そして、現代に至るまで)、貴族社会において、大切な我が子に乳母(うば)をつける事は、当然の慣習であった。
 貴族の子弟(してい)はほとんどの場合、母親から引き離され、乳母(うば)の乳を飲んで育てられる。 下女に世話をされ、やがて教育係から学ぶようになるのだ。
 母親が、我が子の成長にかかわる事はまずなかった。
 だが、エルレヴァはそうはしなかった。
 彼女は息子に、自身の母乳を与えていた。
 それは、彼女が庶民であるがゆえ、生物として当然の本能である母性を抑えきれなかったからなのか‥‥
 あるいは、彼女は身分が低いゆえ、我が子を取り上げられて、身ひとつで城から追放される事を恐れていたからなのか‥‥‥‥それは、定かではない。

 ギヨームはチュウチュウとお乳を吸うと、すぐに大人しくなった。
 ロベールは、エルレヴァとギヨームを2人の下女に任せ、この部屋を立ち去るしかなかったのである。

 それから、しばしの時がたち、寝室は闇に充ちていた。
 エルレヴァの世話を任せられていた2人の下女は、その寝台の傍(かたわ)らに崩れ落ちている。 2人ともかすかな寝息を立てていた。
 騒がしかった階下の広間からも、今は何も聞こえてこない。
 この部屋で現在目覚めているのは、エルレヴァの胸の上のギヨームだけであった。
 その時、ギヨームが泣き声を上げた。 それは、大きな大きな声だった。

     ×  ×  ×  ×  ×

 グラン・レイ達と別れた頼純とゴルティエ、ドニ、ラウルの3人は、『領主の館(メヌア)』の大広間に戻ってきた。
 だがそこは、なんとも不気味な空気に満ち溢(あふ)れていた。
 広々とした広間には、玉座(ぎょくざ)横の燭台(しょくだい)しか灯(とも)されておらず、室内はほぼ闇に覆(おお)われている。
 そこに、昼間の喧噪(けんそう)はもはやない。
 150人近くいた兵士や使用人達は、暗闇の中で折り重なるように倒れていた。
 ただ、彼らの放(はな)つ寝息やイビキだけが聞こえてくる。
 薬のせいなのか、それはけっして大きな音ではなかった。 ただ、小さいながらも幾重(いくえ)にも重(かさ)なったイビキは、広間の高い天井に反響し、耳の奥に不快感を染(し)み出させる。
 その音が、城内の荒涼感(こうりょうかん)をよりいっそうつのらせるのだ。
 誰一人、死んだ者がいないにもかかわらず、目の前の光景はまさに陥落(かんらく)した城の様相(ようそう)を呈(てい)していた。
「伯爵―――! 」
 頼純が暗い室内に向かって声を掛けた。
「ヨリ殿‥ 」
 玉座(ぎょくざ)に腰掛けたロベール伯爵が返答した。
 彼は幸いにもまだ意識があった。
 だが、彼を警護していたエルルインとダヴィドは、玉座(ぎょくざ)の横で深い眠りに落ちている。
 頼純達は玉座(ぎょくざ)へと駆け寄った。
「伯爵‥ だ‥ 大丈夫ですか? 」
 その声に、ロベールがカッと目を見開いた。
「だ‥ 大丈夫ではありませぬ。 いま、きました! ああ‥ お‥ おちる‥ 意しきが‥ めのまえがまっくらに――― 」
「は‥ 伯爵! 」
「し‥ しん‥ しつ‥ ぎよ――― 」
 そこまで言うと、ロベール伯はガクリとうなだれた。
「は‥ 伯爵―――! 」
 頼純は崩れるロベールの体を支えた。
 玉座(ぎょくざ)までたどり着いたゴルティエ達も、ただただその姿を見下ろすしかなかった。
 その時、ゴルティエがふと顔を上げた。 何かが聞こえたような気がしたからだった。
 だが、ほかの者達には、その音が聞こえてないようであった。 ロベールが倒れた事に大いに落胆(らくたん)していたからであった。
 ゴルティエはその音―――赤ん坊の泣き声がする方へ数歩進み出た。
「ね‥ ねえちゃ‥‥‥ 」
 次の瞬間、つま先を引っかけたのか、ゴルティエがつんのめる。 彼はそのまま、頭から床に突っ込んでいった。
 転(こ)けんとするゴルティエの後ろ襟(えり)を、何者かの手が掴(つか)んだ。
 振り返ったドニの手だった。
 そのお陰で、ゴルティエは転(ころ)がる事を免(まぬが)れたのだ。
「おいおい‥ 兄貴、しっかりしてくれ――― 」
 だが、ドニの言葉は続かなかった。
 ゴドウィンが、そのまま膝(ひざ)から崩れ落ちたからである。
 彼もまた、眠り病に落ちてしまったのだ。
「ゴドウィン! 」
「兄貴! 」
「アニキ! 」
 それはあまりにも急激な発症(はっしょう)であった。
 もはやこの街には、頼純と5人の若造しか守る者がいなくなっていた。

     ×  ×  ×  ×  ×

 漆黒(しっこく)の闇の中でギヨームは泣いていた。 おそらくは、ウンチかオシッコを漏らしたのであろう。
 それまで静かだった寝室に鳴き声が充満する。
 このまま泣き続ければ、広間にいる頼純達にもその声が届き、慌(あわ)ててやってくるだろう。
 その時、闇の中でカチカチという音とともに火花が飛んだ。 火打ち石の火花である。
 やがて、ほの明るくなった戸棚の裏から人影が現れる。
 着けたばかりのロウソクを手にしているのはトマであった。 その後ろにはブノアの姿もある。
 2人はずっと戸棚の裏に隠れていたのだ。
 トマがギヨームを抱きかかえる。
「よしよし‥ お着替えをしましょうね♡ 」
 すると、ギヨームはすぐに鳴き止んだ。
「いい子だ、いい子だ‥ 」
 トマは不気味な笑みで赤ん坊を見下ろしていた。

     ×  ×  ×  ×  ×

 絶望的な状況の中、誰もが沈黙を保っていた。
 最初に口を開いたのは、ラウルだった。
「あのォ‥ さっき、ゴルティエの兄貴、何か言ってませんでしたっけ‥? そのォ‥ 倒れる直前に――― 」
「いやァ‥ 俺にゃあ、ナンも聞こえなかったけど‥‥ 」
 ドニが否定すると、頼純も疑問を口にした。
「そういえば、伯爵も最後に何か言ってたような――― 」
「え!? なんて言ってました? 」
「え~~~っと‥ 何だったっけかなァ‥? ん~~~ん‥ 」
 頼純がその『何か』を思い出そうとしていた時、大広間の扉が開けられた。
 街の様子を確認しにいっていたグラン・レイとニコラが松明(たいまつ)を手に戻ってきたのだ。
「街のどこを探しても‥ 赤ん坊以外、起きている者はみつけられませんでした 」
「犬、猫、鶏(にわとり)、豚、牛、馬にいたるまで‥ ほとんどの動物も眠っています。 ただ、野良犬とかカラス、鳩なんかの一部は起きてるみてェです 」
「うむ‥ なるほど‥ 」
「けど、動物の一部は寝てネーわけだな‥‥! 」
 2人の報告に頼純達は考え込んだ。
 そんな頼純に、グラン・レイが言いにくそうに小声で告(つ)げた。
「あ‥ あのォ‥ それから‥ ヨリ様のご自宅にも行ってまいりました 」
―――! 」
「ざ‥ 残念ながら‥ サミーラさんもお倒れになってらっしゃいました 」
 頼純は明らかに衝撃を受けていた。
 レイモンドに代わって、ニコラが続けた。
「サミーラ様に出血等は見られなかったので、おそらくお腹のお子様もご無事かと思われます。 床に横たわれておられたので、寝台に寝せておきました 」
「そうか‥ ありがとう。 手間を掛けて申し訳なかった‥‥ 」
 そう答えながらも、頼純の心の中は不安で一杯だった。 サミーラとお腹の子供に万が一の事があったらどうしようかと、胸が締め付けられた。
 動揺(どうよう)を隠しきれない頼純を案じたのか、ドニが
「ヨリ様はもう、ご自宅にお戻りください。 もはや、ここにいたっては、我々に出来る事など何もありませんから 」
 と進言した。
 グラン・レイもそれに大きく頷(うなず)いた。
「そうですとも! ロベール様は、このレイモンドにお任せあれ。 俺っちとニコラ、ドニ、ラウルの4人で伯爵様は必ずやお守りいたしますから! 」
 しかし、頼純は首を横に振った。
「サミーラが倒れた事は私事(わたくしごと)だ。 この未曾有(みぞう)の一大事に、ロベール伯爵を―――この街を放り出して、サミーラのもとに帰るワケにゃあいかねェ! 今は使命が一番だ。 だから、この俺がここを離れる事は絶対にない‼ 」