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 1023年 ヤルカンド


 頼純は大きく息を吸い込んだ後、その音で目を覚ました。
 うっすらと開いた目はいまだ焦点がよく合わず、天井が回っているように感じられた。
「目覚められましたか? 」
 彼の世話をしていた奴隷女・サミーラが声を掛けてきた。
 頼純は寝台からゆっくり上半身を起こすと、虚(うつ)ろな目で彼女に話し掛けた。彼女との会話は、古くからシルクロードの共通語であるソグド語が使われた。

「こ‥ ここはどこだ? 」
「ヤルカンドの隊商宿(キャラバンサライ)です 」
 サミーラは着古(きふる)されてはいるが、こまめに洗濯し、あちこちを丁寧(ていねい)に繕(つくろ)った衣服を身につけていた。元はそうとう高価な物だったに違いない―――などと、頼純はぼんやり考えていた。
「あなたはこの町に到着した直後に、市場(バザール)で気を失ったのです。 この2、3日はかなりきつい旅でしたから‥‥ それで体調を崩したのだろうと―――お医者様はそうおっしゃってました 」
 彼女は、ヒジャブと呼ばれる長い布で頭部全体を覆(おお)っているタメ、頼純にはその目元しか見えなかったが、それでも彼女が笑っている事は十分にわかった。大きな目が様々な表情を物語るからである。サミーラが美人である事も間違いなかった。年齢は、その声と話しぶりから二十代後半くらいと想像していた。

「い‥ 医者? 」
 一瞬、何を言っているのか理解できない頼純に、サミーラは今度はクスクスと声を漏らして笑った。
「そうなんです‥ 奴隷ごときを、わざわざお医者様に診(み)せてくれたんですよ。 その上、病気だからといって、宿にまで泊めてくれるんですから‥ 本当に変わった御主人様ですわ 」
「あの‥ アハメッドとかいうエジプト人か? 」
「いいえ。 この隊商の本当の御主人様は、奴隷のフリをした異教徒―――ロレンツォ様なのです 」
「はあ? 」
「フフフ‥ まだ、誰も気づいてはいませんけどネ。 でも間違いないと思いますよ。 だって、ロレンツォ様は奴隷なのに、アハメッド様があの方に尊大(そんだい)な態度をとられているところを見た事がありませんし‥ アハメッド様が重大な決断をなさる時は、その前に必ずロレンツォ様とコソコソお話になっていらっしゃいます。 第一、ロレンツォ様の目を見れば判りますわ。 あの方の目は、奴隷の憂(うれ)いを帯びておらず、いつも活(い)き活(い)きと輝いていらっしゃいますもの 」

 頼純は三つの事で驚いていた。
 一つ目は、隊商の本当のリーダーが奴隷のロレンツォであったという事実。
 二つ目は、その秘密を唯一見抜いたサミーラの観察眼。
 そして三つ目は、そのサミーラがよくしゃべる娘であったという事。
 もっとも、三つ目は『驚き』というよりも、『好感』といった方が適切だったのかもしれない。
 いまだ意識がハッキリしない頼純にとって、コロコロと鈴のように笑う彼女の様子は心地よかった。

 砂漠でこの隊商に救助されてからも、数日間は頼純の意識が戻る事はなかった。
 だが六日ほどすると、熱心に介抱(かいほう)してくれるサミーラと、二言三言なら言葉を交(か)わせるようになり、杖をつけば歩けるまでに回復した十日目には、自分の立場や状況などを教えてもらうまでになっていた。
 その会話の中から、頼純は彼女が高い教養の持ち主である事を知った。
 サミーラは、ペルシャ語とアラビア語、ソグド語を自由に操(あやつ)り、女であるにもかかわらず文字を書く事もできた。
 歴史、文学、さらには様々な科学の基礎的な素養(そよう)も持ち合わせている。
 そして、なんといっても彼女の立ち居振る舞いには気品があるのだ。
 それは、幼い頃から彼女に乳母(うば)と家庭教師がついていた事を物語っていた。
 サミーラは、自分の出身がカラハン国とガズナ国に滅ぼされたサーマーン国だと教えてくれたが、おそらくはその国のかなり高い身分の家に生まれたのだろうと頼純は考えていた。

 だがその一方で、少女の頃に奴隷になった事も話していた。
 高貴の出である彼女が、どうして奴隷にされてしまったのか‥‥奴隷としてどれほど過酷(かこく)な少女時代をおくってきたのか―――頼純には想像もつかなかった。
 ただ、今こうして自分が生きているのは、彼女の献身(けんしん)的な看病のお陰である事は間違いなかった。
「明日の朝、出発だそうですが‥‥ もう、ヨリ様も大丈夫でしょう。 だって、二日間もたっぷり寝たのですから。 フフフフ‥ 」
 頼純は、楽しそうに笑うサミーラが美しいと思った。

     ×  ×  ×  ×  ×

 その夜、事件は起こった。
 頼純は夜中に目を覚ました。
 バタバタと走り回る音や悲鳴、怒号(どごう)が聞こえたからである。
 不審(ふしん)に思った彼は、寝台から起き上がると、いまだおぼつかない足取りで部屋を出た。
 砂漠地帯では奴隷に拘束具(こうそくぐ)をつける必要がない。逃げ出しても、水と食料がなければ遠くまで逃げる事はできないし、足跡を追えば追跡も容易であったからである。むしろ、下手に手足を拘束すると、奴隷が様々な危機をさけられなくなり、それが隊商全体をもあやうくする可能性があった。

 杖をつきながら廊下を歩いていくと、隣の部屋から明かりが漏れていた。物音もその中から聞こえてくる。
 その時、ひときわ大きな悲鳴が響いた。女の声だ。
 頼純は扉を少し開き、中を覗(のぞ)き込んだ。
 部屋の中には、扉に背を向けて立つ警備隊長ミーカーイールがいた。あらためて、彼がかなりの大男である事に気づかされる。
 そしてその奥には、衣服を引き裂かれたサミーラが床にしゃがみ込み、後ずさっている。まさに犯される寸前の場面である。
 その光景を目の当たりにした頼純は、荒々しく扉を開くと中へ押し入った。
 頼純に気づいたサミーラが、か細い声を上げる。
「ヨ‥ ヨリ様‥ 」
 彼女のヒジャブは取れ、顔が露(あら)わになっていた。
 その表情は脅えに歪んでいたが、頼純はその事よりも初めて見る彼女の美しさに気をとられてしまった。美しいであろう事は予想していたが、まさかこれほどまでとは思いもよらなかった。彼も旅の途中で、様々な国の美女達を見てきたが、サミーラの美しさはそれを遙かに凌駕(りょうが)していた。そして、彼が想像していたよりもずっと若い。二十歳前後であろう。
 サミーラの声にミーカーイールが背後を振り返った。髭もじゃの顔は赤く、目も焦点が合っていなかった。かなり酒に酔っているようだ。
「何をしている? 奴隷がこの俺様に何のようだ? すっ込んでろ! 」
 ペルシャ語で怒鳴るミーカーイールに、頼純は何も返さず、ただその目をジッと睨(にら)み据(す)えた。
 ミーカーイールは忌々(いまいま)しげに鼻を鳴らすと、長く幅の広い両刃の直刀を鞘(さや)から抜き放った。
「何だ、その目は? 奴隷のくせに、警備隊長様に文句でもあるのか、この野郎! だったら、ブッ殺してやるぞ! 」
 威嚇(いかく)するミーカーイールに、頼純は体を支えていた杖を両手で握り、ゆっくりと正眼(せいがん)に構えた。だが、まだ完治(かんち)していない体はかすかに揺(ゆ)れている。
 サミーラが悲鳴に近い声を上げる。
「やめて、ヨリ様! 今のアナタが闘って、勝てる相手じゃないわ 」
 サミーラの言うように、ミーカーイールはでっぷりと太り、体重は病み上がりの頼純の三倍はゆうにありそうだった。闘えば、間違いなく力負けしてしまう。しかも、本物の剣と木の杖である。万が一にも頼純に勝ち目はなかった。
 彼は頼純を指差し、からかうように嗤(わら)った。その言葉はペルシャ語からソグド語に変わっていた。
「ハハーン‥ オメー、姫様に介抱(かいほう)してもらって、惚(ほ)れちまったな?」
 その言葉に、揺れていた頼純の切っ先が一瞬ピタリと止まった。
「姫様? 」
 ミーカーイールは得意げに語った。
「そうだよ。 この女奴隷は、世が世ならサーマーン国の王女様だったんだ。 父上はマンスール3世―――十六年前にアム川南でガズニの兵に殺された皇太子様だ。 偶然にも、俺はそのお方にお仕(つか)えしてたのさ。 もっとも、向こうは俺みてーな下っ端兵士の事なんぞ知っちゃいなかったと思うがね 」
 サミーラが高い身分の出身であろう事は予想していたが、まさか王女であろうとは―――本日は、彼女に何度も驚かされる日だと、頼純は呆(あき)れていた。
「ヨリ様、もうやめて‥ 私の事はいいから、アナタは部屋に帰って、明日のタメに十分休んでちょうだい 」
 窮地(きゅうち)にある自分の事よりも彼の身を案ずるサミーラを無視して、頼純は静かな声でミーカーイールに尋(たず)ねた。
「じゃあ、貴様は‥ 自分の元主君(しゅくん)の娘を手込めにしようとしているのか?」
 酒で鼻を真っ赤にしたミーカーイールは、下卑(げび)た笑いで答えた。
「ゲヒヒヒ‥ そうだよ。 俺は一度でいいから、とびきり上等な女とやってみたかったんだ。 そして今日、この女奴隷があの王女様だと判った。 だったら、やるしかネーだろう♡ 」
「まったく、呆(あき)れるね‥ 」
 頼純は口元こそ緩めてはいるモノの、その目は険しかった。
「そもそも、奴隷は御主人様の所有物だ。 いくら警備隊長だからといって、奴隷に勝手なマネは許されないハズだぞ 」
 しかし、ミーカーイールはそれにまったく動じない。 完全に開き直っている。
「ヒャヒャヒャ‥ 残念ながら、アハメッド様は俺の言いなりだよ。 隊商を守る俺がいなきゃ、旅は続けられねェんだからな。 だから、例(たと)えこの女を殺しても、給金(きゅうきん)がちょいと減る程度の話さ 」
「そうか‥ 」
 頼純は俯(うつむ)くと、残念そうに溜息(ためいき)をついた。
 再び杖を握り直した頼純に、もはや震(ふる)えや揺(ゆ)れはなかった。湧(わ)き上がる『気(アドレナリン)』が激しい勢いで『経絡(けいらく)』を駆け巡り、爆発的な『力(エネルギー)』が全身に漲(みなぎ)っていたからだ。
「けどなァ‥ 俺はこの隊商がどうなろうと、旅がどうなろうと関係ねェ。 命の恩人の危機を救うまでさ。 だから‥ テメーみてーなクソ野郎―――足腰立たないまでに叩きのめしてやる! 」
「ナァニィ―――イ!! 」
 頼純に怒鳴りつけられたミーカーイールは、顔を赤黒く怒張(どちょう)させ、烈火(れっか)のごとく怒る。

 次の瞬間、ミーカーイールは大きな体の割に素早い動きで、右手に握った長剣を頼純めがけて振り下ろした。
 しかし、頼純はそれよりももっと速い身のこなしで剣の切っ先を躱(かわ)すと、ミーカーイールの右手首に杖を叩き込む。
 強烈な痛みにミーカーイールが思わず長剣から手を放す。切っ先が床にぶつかり撥(は)ねた長剣は、反動で回転しながら宙(ちゅう)を舞う。
 一方、頼純の杖は、ミーカーイールの手首からその右頬(ほお)へと、一直線に襲いかかる。激しい衝撃で杖はバラバラに砕け散った。
「ウガッ! 」
 ミーカーイールは声を上げ、大きく仰(の)け反(ぞ)る。
 頼純は左手に残った杖の残骸(ざんがい)を捨てながら、右手で落ちてきた長剣の柄(え)を握り締め、そのままそれをミーカーイールの首の付け根に打ちつけた。
「ギャ―――アッ‼ 」
 ミーカーイールは絶叫を上げると、そのまま床に崩れ落ちる。
 すべてが一瞬の出来事であった。
 あまりの早さに、何が起きたのかよく理解できていないサミーラにも、ミーカーイールが死んだであろう事は容易に想像できた。

 しかし、床に倒れ込んだミーカーイールには、ちゃんと首がついている。
 頼純が剣の横の面で叩いていたからである。
 やがて床に転がったミーカーイールは、首の付け根を押さえて幼子(おさなご)のようにジタバタと暴れはじめた。
「痛い痛い痛い痛い痛い―――痛ィィィィい‼ 」
 右手首も右頬も十分痛いのだが、首の痛みはその比ではなかった。大の大人が、涙をポロポロこぼすほどの痛みである。
 その時、突然の目眩(めまい)に頼純の体がグラリと傾(かし)ぐ。朦朧(もうろう)とする意識の中で、崩れ落ちないよう長剣で体重を支えるのが精一杯だった。
 そんな頼純の様子に気づいたのか、ミーカーイールは首の痛みに堪(た)えながら、階下へと大声をあげる。
お―――い‥ 野郎ども、出て来やがれ! 」

 声と共に、何人もの武人が部屋の中へと飛び込んできた。廊下の外も警備隊の武人であふれている。
 隊長が女奴隷を犯(や)るらしいとの噂に、彼らははじめからずっと聞き耳を立てていたのであった。
「みんなでこの奴隷を切り刻(きざ)んでやれ! バラバラにして、豚のエサにするんだ」
 ミーカーイールの命令に、武人らは頼純めがけていっせいに剣を振り下ろした。
 しかし頼純は、次々と襲いかかる刃(やいば)を病人とは思えぬ絶妙な身のさばきで躱(かわ)すと、彼らの頬(ほお)に両手で握った長剣を打ちつけていく。これもすべて、刀の横の面で行われた。
 それは、簡単に言えばビンタのようなモノなのだが、分厚い鉄の板で叩かれるのである。奥歯はへし折れ、顎(あご)の骨が砕けるほどの衝撃であった。
 さらに、幾人かの攻撃を躱(かわ)すと、彼らの横腹や背中、腕などに、強烈な長剣のパンチを喰(く)らわせていく。
 頼純は天性の戦士なのか、意識を失いかけているというのに、危険が迫(せま)ると、その瞬間、瞬間に見事な反応を示した。
 それでも、幅広の長剣を横向きに振り回すにはかなりの体力が要求される。
 廊下へ出てさらに数人を倒したと思われた頃には、頼純は立っていられないほどに疲労困憊(ひろうこんぱい)していた。もはや長剣を持ち上げる事さえ出来ない。
 ああ、これで俺の命運も尽(つ)きたか。あの砂漠での地獄を生き延びたというのに、何をやっているんだろう―――頼純は薄れゆく意識の中でそんな事を考えていた。

 その時、ドタドタと階段を上ってくる人の姿が見えた。
 ロレンツォとアハメッドの二人である。彼らは驚愕(きょうがく)の表情で何かを叫んでいた。
「○×▲、××□、○○△! 」
「何があった? どうしたんだ? 」
 その声を聞きながら、頼純の目の前は真っ暗になった。