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 1026年 アンデーヌの森(5)


 突如、目の前に出現したワニの巨大な口に、頼純はすぐに反応する事ができなかった。
「ああああ‥ や‥ やばい! 」
 誰が見ても、頼純の上半身はワニの大きな口によって噛(か)み砕かれると思われた―――絶体絶命のピンチである。
クソッタレがッ‼ 」
 頼純は反射的に、右手に握っていた剣を、開かれたワニの口めがけて突き上げた。
 剣は上顎(うわあご)の内側に刺さったが、すぐに頭蓋骨にあたり、止まってしまった。
 次の瞬間、口を閉じようとしたワニの下顎(したあご)がその右腕を襲う。
「わッ! 」
 その鋭く尖(とが)った歯は、軽くあたっただけでも、腕をズタズタにしてしまうだろう。
 頼純は仰(の)け反(ぞ)るようにして、右手を引っ込めた。
 ワニの口は勢いよく閉じられ、下顎(したあご)は上顎(うわあご)に刺さった剣の柄頭(つかがしら)をグッと押し上げた。
 ワニは動物の中でも桁(けた)違いの咀嚼(そしゃく)力(=噛む力)を持っている。その驚異的な力は、突き刺さった剣を上顎(うわあご)へと押し込み、自(みずか)らの分厚い骨さえも突き破って、切っ先を外へと飛び出させたのだった。
 ギャオオオオ‼―――と大きく咆吼(ほうこう)を上げるワニ。痛みを感じにくい爬虫類でも、さすがにこれは痛かったのであろう。
 少しでも角度が違っていれば、突き刺さるどころか、剣はその圧力で簡単にへし折れていたハズだ。それは頼純が持つ運がもたらした結果だった。
 ワニは上下左右に大きく首を振って暴れた。
 だが、この程度の傷では、彼にとってなんら致命傷(ちめいしょう)とはなっていない。
 もがくワニは鼻先を左右に振りながらグイグイと前進してきた。
 頼純はそれを躱(かわ)そうと後ずさったが間に合わず、上半身がその上顎(うわあご)の上に乗ってしまったのだ。
 ワニは、邪魔な頼純を振り落とそうと、さらに大きく頭を振った。
うわ! 」
 頼純は暴れるワニの口に必死にしがみついた。
 地面に振り落とされれば、その瞬間にワニは頼純の胴体に喰(く)らいつくだろう。体勢を立て直す隙(すき)などけっして与えてはくれないのだ。
 ワニは口だけでも、長さが4ピエ(約1.2メートル)、横幅は2ピエ(約60センチ)ほどもある。 その口の尖端から1クデ(=1キュビット=約45センチ)ほどの位置に、突き刺さった剣の切っ先が3プース(=3インチ=約8.1センチ)ほど飛び出しているのである。
 その切っ先が腹に刺さり、かなり痛い。それでも頼純は、体を上顎(うわあご)に密着させ、振り落とされないように頑張るしかなかった。

     ×  ×  ×  ×  ×

 遠くファレーズの地は、本日も晴天に恵まれ、朝からのどかな人々の営(いとな)みが始まっていた。

 そんなファレーズ城内の礼拝堂(シャペラ)では、祭壇(さいだん)に向かい厳(おごそ)かに礼拝(れいはい)を捧(ささ)げるトマの姿があった。
 やがて静まり返った礼拝堂の中に、『クククク‥ 』と忍び笑いが響いていく。
 トマは『アンデーヌの森』にいるロベール達の事を想像するだけで、嬉(うれ)しくてしょうがなかった。
 毒入りリンゴ酒(シードル)を飲んだ家臣達は、今頃バタバタと死んでいるだろう。
 トリカブトとタマゴテングダケを合成して作った特製の毒は、強力かつ静かにゆっくりと効果が現れる。4日ほどで呼吸が正常に行(おこな)えなくなり、やがて激しい下痢をおこす。そして心臓が停止するのだ。

 昔から、暗殺に毒を用(もち)いるのは女性の場合が多かった。
 武器を使う事になれていない女は、一方で食事や酒の用意をする機会が多かったからである。その中に毒を忍(しの)ばせれば、簡単に相手を殺す事が出来た。
 しかも、毒殺は犯人が見つかりにくい。
 そんな毒の中でも、トリカブトは特に人気があった。わずかな量で相手を確実に死に導(みちび)くからである。
 別名『継母(ままはは)の毒』と呼ばれていた。邪魔となった結婚相手の連れ子を殺すのによく使われたからである。

 トマはさらに、全員が日々食べるパンの材料である小麦粉にも、ベラドンナの毒を混ぜていた。
 ベラドンナはヨーロッパ中に普通に自生(じせい)する植物だが、その根茎(こんけい)と根に含まれる毒は時に薬としても用(もち)いられてきた。ベラドンナ=『美女』という名前は、目薬として使用すると瞳孔(どうこう)が開き、瞳を美しく見せるところから付けられたのである。
 もちろん大量に服用すると死に至(いた)るが、トマはこれも効能(こうのう)を特化させ、認知機能を低下させる性質を強く発揮するよう、抽出・調合していた。
 ロベール達が出発の準備をしている時に、隙を見てベラドンナの毒を小麦粉の袋に混ぜたのである。
 小麦粉の袋はいくつもあったため、けっこうたいへんな作業であったが、トマはそれをやり遂(と)げたのだ。
 3、4日もこの毒の入ったパンを食べ続けると、見た目は正常のようでも、判断力は著(いちじる)しく低下し、まともな決断が出来なくなる。
 ロベールは錯乱(さくらん)状態で一人森の中に取り残され、飢え死にするか、熊や狼に喰(く)い殺されるに違いない。
 トマの作った毒の中でも、これは会心(かいしん)の出来であった。

 リンゴ酒(シードル)を運こばせた農夫アルノーもすでに始末をしていた。彼にはロベール一行の後を追わせ、きこりのアランがつけていった白糸の道標(みちしるべ)もはずさせていた。知りすぎた彼は早々に口を封じなければ、あとでやっかいな事になるかもしれない。
 アルノーに飲ませた毒は、彼が寝ている間に心臓麻痺を起こさせたハズである。しかも、毒の痕跡(こんせき)は全く出ない。役人も自然死であると判断するだろう。
 たかだが8ドゥニエ(現在の8千円ほど)ほしさに酒を運び、その沈黙を守るタメに命まで奪われたのだ。まったく愚かな奴だ―――とトマはほくそ笑んだ。
 すべてがうまくいっている。
 ああ、今日はなんてよい日なのだろうか。
 トマは心より神に感謝していた。

     ×  ×  ×  ×  ×

「こ‥ この野郎! 絶対、放さねェからな! 放してたまるもんかい! 」
 頼純は、彼を振り落とそうと物凄い勢いで首を振るワニの口に、必死にしがみついていた。
 しかし、満身創痍(まんしんそうい)の頼純にとって、もはやそれが限界だった。いくら頑張っても、腕から力が抜けていく。上半身は遠心力で、少しずつ鼻先へと移動しているのだ。
 ああ、もうダメかもしれない。このままでは、振り落とされてしまう―――そう思った時、頼純はワニと目が合った。
 3ピエ(約90センチ)ほど先に、まったく感情を持たないワニの目があるのだ。ワニは暴れながらも、裂け目のようなその瞳で頼純をジッと見詰めていた。
 そして、頼純の左手にはまだ剣が握られていた。
こんにゃろ! 」
 頼純はその剣をワニの右目に突き立てた。それはほとんど無意識の行動であった。
 再(ふたた)び襲いかかった激痛に、ワニは大きく首を上に振り上げた。
 ワニの目に剣を突き刺した事で、しがみついていた左腕をはずしてしまった頼純は、そのまま宙高くに跳ね上げられた。
わああ―――あ! 」
 8ウナ(約10メートル)ほども飛ばされた頼純は、近くの木に落下した。バキバキと枝を折りながら落ちていったが、途中の大きな枝になんとか引っかかる事ができた。
 そして、それでも頼純の左手には、ワニの目を刺した剣が握られていたのである。
 どのような痛みや衝撃を受けようとも、けっして武器を手放さないというのは武人としてあっぱれな事であった。
 だが、いまはそれどころではない。
 枝の上で態勢を立て直した頼純は、全身の痛みをこらえながら、急いで下の様子を窺(うかが)ってみた。
 15ピエ(約4.5メートル)ほど下の地面では、ワニが白い腹を上にして悶絶(もんぜつ)している。口は半開きで、これ以上閉じられないようだった。上顎(うわあご)に刺さった剣が邪魔しているのだ。
 これは形勢逆転となる大きな機会であろう。
 だが、これまでの恐怖を考えると、もう二度と地上には戻りたくなかった。
 しばし逡巡(しゅんじゅん)した頼純であったが、意を決すると、剣を両手で握り締め、その白い腹めがけて一気に飛び降りていった。
でィえ―――いッッ‼ 」
 ワニの腹側はゴツゴツした表皮(ひょうひ)ほど硬くはなかった。落下の勢いもあってか、剣は意外にも深々と根元まで刺さったのである。
「どうだ! 」
 これで決まったと思ったが、そうはいかなかった。むしろ、ワニはさらに暴れはじめたのである。腹の上に跨(また)がっていた頼純は簡単に振り落とされてしまった。
 さすがの彼も、今度ばかりは剣から手を放してしまった。
 転がりながらワニから離れた頼純は、すぐに立ち上がり、腰から自分の太刀を抜こうとした。
 しかし、間に合わなかった。
 頼純の目の前に、3度目となるワニの口が出現したのだ。
 もうダメだ、今度こそ喰(く)われる―――そう思いながらも、頼純は最後の抵抗をすべく後方へと飛び下がった。
 ところが、ワニは頼純の動きについて来れない。
 それも当然であろう。ワニは、腹に深々と剣が食い込み、右目は潰されているのだ。目標を捕捉(ほそく)し、それに向かって素早く迫る事など出来ようハズがなかった。
 さらに、最大の武器である口は、内側から剣が刺さり、上手く動かせない。
 ワニには、すでに従来の半分以下の戦闘力しか残されていなかった。
 頼純はやっと腰から『小烏丸』を抜き放った。光の軌跡(きせき)が大きく弧(こ)を描(えが)く。
 太刀(たち)を抜きながら、頼純はワニの右側へと移動していた。
 右目を潰されたワニにとってそこは完全な死角となる。突然、頼純が消えたように見えたであろう。
 キョロキョロと彼を探すワニの胴側まで回り込んだ頼純は、口の次に強力な破壊力を持つ尻尾(しっぽ)を何とかしようとしていた。
 尻尾(しっぽ)さえ切断できれば、ワニはもはや恐るに足らぬ存在となる。
 だが、長さ15ピエ(約4.5メートル)、直径は3ピエ(約90センチ)をはるかに越える尻尾(しっぽ)である。しかも、それがバタバタと激しく動いている。
 不用意に近づけば、またはじき飛ばされてしまうだろう。
 さらに、その中を貫(つらぬ)く尾骨(びこつ)は、根元付近なら直径5プース(13.5センチ)以上あるだろう。果たして、そのような太くて固い骨を、太刀(たち)で切断する事など出来るのか―――頼純には自信がなかった。
 下手に太刀(たち)を振るえば、分厚い表皮(ひょうひ)と固い尾骨(びこつ)に阻(はば)まれ、太刀(たち)の方が折れてしまうかもしれなかった。
 しかし、この機会を逃せば、反対にやられる可能性も十分にあり得る。勝機とは常に表裏(ひょうり)を繰り返しているのだ。
「ええい‥ ままよ! 」
 意を決した頼純は、大きく動く尻尾(しっぽ)を狙いすますと、『小烏丸』を大上段から振り下ろした。
えいッ‼ 」
 硬い表皮(ひょうひ)にザクッと食い込んだ頼純の太刀(たち)は、腕の振りと腰を落とす動作で一気に尻尾(しっぽ)を斬り裂いていく。
 頼純は切断面からほとばしる大量の血を浴びた。
 ついに、凶暴な尻尾(しっぽ)が胴体から離れたのである。
 ワニはのたうち回り、断末魔(だんまつま)の叫び声を上げた。
 胴体から離れた尻尾(しっぽ)は、しばらくバタバタしていたが次第に動かなくなった。
 ロベールが木の上から歓喜(かんき)の声をあげる。
やった! やったぞ‼ ドラゴンを倒した! 」
 さすが、名刀『小烏丸』である。あれだけのモノを斬りながら、刃こぼれひとつしていなかった。

 ワニ本体はまだ生きていたが、瀕死(ひんし)である事は間違いなかった。
 ワニは全長の半分を占める尻尾(しっぽ)を鞭(むち)のようにしならせて前進する。
それがなくなった時点で、いくら4本の足が無事であろうとも、もうまともに歩く事さえままならないだろう。
 やがて、死に至るのだ。
 頼純はそれ以上の攻撃を止め、しかし、油断なくその死を観察し続けた。
 時間とともにワニの動きは弱々しくなり、やがて痙攣(けいれん)を起こすと、残った左目が閉じられ、荒かった息も音がしなくなった。
 ワニは死んだと思われた。
「死んだのか? 本当に、死んだのか? 」
 頼純は恐る恐るワニに近づいていった。
 その時、左目が開き、ギョロリと頼純を睨みつけた。
ひッ! 」
 その視線に驚き、頼純は慌てて太刀(たち)を大上段に振りかぶった。
 だが、それがワニの最後の動きだった。
 今度こそ本当に巨大ワニは死んだのである。

「ヨリ殿―――! 」
 木から下りたロベールが、頼純の元へと駆け寄ってきた。
「よかった! 死ななくて本当によかった! 」
 ロベールは頼純に抱きついた。
「凄(すご)い戦いでした! やはり、アナタは大天使(アークミンジ)ミッシェル様の化身に違いない。 人間にあのような戦いができようハズはないのですから 」
「痛(い)てててて‥ ほ‥ 骨折れてるから‥ 胸、痛いの‥ 」
「あ‥ ゴメンなさい 」
 ロベールが体を離すと、頼純はそのままヘナヘナと地面に崩れ落ちた。
「こ‥ 怖かったァ‥。 もうダメだと、何度も思ったよ。 オシッコもちょこっとちびっちゃったし‥ 」
 そんな頼純をロベールは強張った笑顔で覗(のぞ)き込む。
「ハハハ‥ はい? ち‥ ちびっちゃったの? 」
 やがて二人はふたたび抱き合って笑い、そして泣いた。

     ×  ×  ×  ×  ×

 それまで死んだように眠っていた兵士達も、夕方頃から一人、二人と目を覚ます者が現(あらわ)れはじめた。しかし、彼らの体内にはまだ毒が残っているようで、その足元はおぼつかない。あと1日は安静にしておかなければならないだろう。
 毒で死んだ者はさらに二人増え、全部で8人となっていた。
 だが、あの老婆は、本日の夕刻まで生き残った者はほぼ助かるだろう―――との見立てであった。だとすれば、その人数は思いのほか多い。4分の3近くの兵士が生き残った事になる。
 ジョルジュ伯も上体を起こせるまでに回復していた。
「み‥ 見たよ! アンタの戦い、俺は見た! すごかった‥! だから、この俺が証人になってやるヨン♡ 」
「は!? 何の証人だい? 」
「アンタがドラゴンを倒したってェ事を、認める証人に決まってんじゃん! 」
「バァ~~~カ‥ 大きなお世話だよ! 」
 口ではそう言いながらも、頼純はジョルジュの命が助かった事を素直に喜んでいた。
 また、傭兵仲間のピエトロやロメオも意識が戻っていた。
 頼純が彼らに水を飲ませてやると、
「隊長‥ 我々はアナタを守るためについてきたのに――― 」
「肝心(かんじん)な所で、お役に立てなくて残念です 」
 二人はそうつぶやいて熱い涙をこぼした。
 そんな彼らに、頼純は穏やかな微笑(えみ)を返すのだった。

 ロベールは、次々と目を覚ます家来達に献身(けんしん)的に水を与えていった。
 シュザンヌから、あと1日は『塩入り蜂蜜湯』を与えるようにといわれていたが、その後、彼らに食べさせる食料はほとんど残っていなかった。
 なんとか、食料を調達しなければ―――ロベールは思案(しあん)していた。

 頼純は、肋骨(ろっこつ)が3本折れ、右上腕(じょうわん)もひびが入っているようだった。
 腹と左大腿部(だいたいぶ)には深い切り傷があり、擦過傷(さっかしょう)、打撲傷(だぼくしょう)は無数にあった。体がバラバラになりそうなくらい全身が痛い。熱も出始めている。
 それでも頼純は、兵士達に水を飲ませ終わると、ワニに刺さっていた剣で、その腹を割(さ)いた。
 ワニの腹に収(おさ)められた兵士達を、そのままにしてはおけなかったからである。
 大きく口を開いた腹からは、いまだ未消化のバラバラになった手足や胴体、頭などが胃の粘液にまみれてドロリと流れ出てきた。
 頼純は、物凄(ものすご)い悪臭を放つその内容物の中から、3人の遺体を丁寧(ていねい)に仕分けし、それぞれ選別していった。
 ワニに喰(く)われた者が、毒ですでに死んでいた事がせめてもの救いであった。
 さらには、腐りやすいワニの内蔵もすべて取り出していく。

 頼純はクタクタの上に朝から何も食べておらず、胃の中は空っぽであった。だが、その悪臭と惨(むご)たらしい光景は、頼純の食欲を完全に奪っていた。
「どうぞ‥ 」
 すべての選別が終わった頼純に、ロベールが『塩入り蜂蜜湯』を渡してくれた。それならば、頼純も何とか飲む事が出来た。
 頼純はそれを飲み干すと、すこし気分も落ち着いて、今度は猛烈な睡魔に襲われた。この二、三日ほとんど寝ていなかった彼は、倒れるようにして眠りに落ちたのだった。

 翌日は昼過ぎまで、頼純は起きる事が出来なかった。
 やっと目を覚ましても、頭痛はひどく、動くたびに全身が棒で殴られているような痛みが走った。
 それでも、彼はなんとか起き上がった。
 ロベールとともに、残りわずかな干し肉と『塩入り蜂蜜湯』で遅い朝食を取ると、二人で穴掘りを開始したのだ。
 ワニに食われた3人を含め、8人分の墓穴を掘らなければならないからだ。
 獣たちに掘り返されないように深く掘らなければならなかったが、彼らには剣で地面を穿(うが)ち、手で土を掻(か)き出していくしか方法がなかった。
 ふらつく体でそのようなやり方をしていたのでは、作業が進むハズもなく、けっきょくその日は穴を1つしか掘れなかったのである。
 こんな進捗(しんちょく)状況では、穴掘りだけでも4、5日は掛かりそうだった。

 だが、その翌日―――森へ入って8日目の朝には、十人近い兵士が穴掘りを手伝えるまでに回復しており、彼らとともに何とか八つの墓穴を掘り終える事ができた。
 墓穴の中に、すでに腐り始めていた八つの遺体をそれぞれ納め、十分に土を被(かぶ)せてから、その上に彼らの剣を差し、さらに木の枝で作った墓標(ぼひょう)を立てた。
 一同は深い祈りを捧げ、彼らを懇(ねんご)ろに弔(とむら)ったのである。

 森に入って九日目、いまだ多少ふらつく者はいたが、兵士のほぼ全員が立てるようになっていた。
 彼らは改めてワニの死体を眺め、その巨大さと凶暴さに驚嘆(きょうたん)した。
 そして、そんなドラゴンを倒した頼純に崇拝(すうはい)の目を向ける事になる。彼はまさに勇者であり、英雄であった。

 彼ら全員が、自分達は頼純の『武』とロベールの『優』によって、生かされた事を知っていた。そして、その事を深く感謝していた。
 兵士達は、頼純に対する崇拝(すうはい)と同じくらい、ロベールの献身(けんしん)的介護に感動していた。貴族である伯爵様みずからが、自分達を救うために、命を賭(と)して走り回ってくれたのである。そんな話、誰も聞いた事がなかった。
 死の淵(ふち)にいて、ロベールから与えられた水の温(ぬく)もり、その美味(うま)さを彼らは生涯(しょうがい)忘れはしないだろう。
 生き残った兵士達は、ロベールのタメならば命など惜しむ事なく、真っ先に戦場に飛び込んでいくに違いなかった。
 ここに、深い『忠誠心』と、死をも恐れぬ『勇気』を兼(か)ね備(そな)えたロベールの軍団が誕生したのである。

 亡くなった者達の埋葬をすませた事で気が抜けたのか、頼純はやっと高熱を出す事が出来た。全身が焼けるように熱かったが、その傷と疲労を考えれば当然であった。
 頼純の看病は傭兵仲間のピエトロとロメオ、さらに兵士三人が加わり、交代で面倒をみてくれた。全身をぬらした布で冷やし、それを小まめに取り替えてくれたのだ。塩と蜂蜜の飲み物も定期的にスプーンで飲ませてくれる。
 ロベールやジョルジュも、心配そうに何度も見に来てくれたが、看病は彼らに任せていた。
 ロベール達には、兵を指揮してやらなければならない事があったからである
 彼らは、まず腐って強烈な悪臭を放つドラゴンの内臓をかたずけ、それを遠くに掘った穴に埋めた。
 続いて、ドラゴンの首を切り落とし、胴体の皮を剥(は)ぐのだ。
 これはジョルジュ伯の提案で、ドラゴンを討(う)ち取った証(あかし)に、それらを持って帰ろうという事になったからである。ドラゴンの巨体をすべて担(かつ)いで帰る事は出来ないが、それぐらいなら何とかなるだろうという判断だった。
 その作業に使った5本の剣と12本のナイフは、すべて刃がボロボロになってしまった。それほどにドラゴンの骨や表皮(ひょうひ)は硬かったのである。

 残ったドラゴンの肉は食料にする事にした。頼純の指示であった。
 小麦粉にはベラドンナの毒が入っているため使えない。他の食材はもう残っていなかった。
 一方、冬は間近(まぢか)である。自生するキノコや木の実は数少なく、食料に適した大型動物もこの近くにはあまりいなかった。
 それゆえ、こんなモノでも食うしかなかったのである。
 すでに腐っている部分を丁寧に切り落とし、十分に焼いてみた。
 だが、ドラゴンの肉である。誰もが口にするのが怖かった。
 それでも空腹には勝てず、目をつむって口の中に押し込んだのである。
 それは鶏肉のような味で、意外にもうまかった。
 そして、ドラゴンの生命力、魔力を体内に取り込んだような気がした。誰もが、以前の自分とは違う体になったのだと勘違いしたのである。
 ドラゴンの肉の大半は日持ちするように、鍋を使って杉チップの燻製にされたのだった。

 十日目の朝、シュザンヌがふたたび現れた。兵士達の具合を診(み)に来てくれたのだった。
「な‥ なんと、これは―――!? 」
 目の前に広がる大量の肉塊(にくかい)と巨大な骨に腰を抜かしたシュザンヌは、思わずその声が裏返り、若々しい声を漏らした。
 彼女は、信じられぬといった様子で頼純を振り返った。
「お前が‥ あの怪物ドラゴンを―――お前が倒したというのか‥? 」
 ふたたび老婆の声となったシュザンヌに、いまだ熱の引いていない頼純は頷(うなず)いた。
「ああ‥ まあね‥ 」
 シュザンヌは茫然(ぼうぜん)とした様子で呟(つぶや)いた。
「―――東方より従士(レウデース)来たりて、北の島に住む悪鬼(ロキ)を退治せん―――あの従士(レウデース)とは、こやつの事なのであろうか‥‥? 」
 だが、いつものように深い頭巾(キャポ)に隠された彼女の表情は、頼純にも見えていなかった。

 従士(レウデース)とは、古代ゲルマンの制度で、国王や貴族と契約を交わし、彼らに仕(つか)える戦士の事である。のちの騎士の原型となった。
 また、ロキとは北欧神話に登場する『邪悪で狡猾(こうかつ)なる神』の事であろう。
 なぜ、この老婆がそのような事をつぶやいたのか―――その時は、それを気に留める者はいなかった。

 翌日、ロベール一行はファレーズへと帰る事にした。
 シュザンヌが森の中を道案内してくれるという。
 兵士達は大きな輿(こし)のようなモノを作って、そこにワニの頭を乗せ、数人で担(かつ)いだ。
 いまだ熱が引かない頼純も担架に乗せられ、4人掛かりで運ぶ事になっていた。
 彼らは威勢(いせい)よく出発した。それは復活祭の行進のようなありさまであった。
 一行は、大いなる歓喜に満ちていたのである。