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1027年 ファレーズ・領主の館
「はあ!? け‥ 結婚ンンンンンん!? 」
ロベール伯爵は素っ頓狂(すっとんきょう)な声を上げた。
「う‥ うん。 まあ‥ なんか、そんな流れになっちゃって――― 」
頼純は答えながら後頭部をかいた。照れているのか、顔を赤くしている。
広間には玉座に坐るロベール、その左隣に大きなお腹を抱えたエルレヴァが立っていた。右側にはティボーの姿もある。
頼純とサミーラは揃(そろ)って彼らに報告に来たのだ。ロレンツォも同席している。
ロベールは目を輝かせて頼純を覗(のぞ)き込んだ。
「じゃあ‥ これからもずっと、この街にいてくれるって事―――? 」
「まあ‥ 一生ってわけじゃネーけどな。 しばらくの間はいさせてもらうよ」
「やったァァァァァァァァァあ‼ 」
ロベールは喜びのあまり、頼純に飛びつくと、彼をギュッと抱きしめた。
「く‥ 苦しい‥ 」
もがく頼純の横で、ロレンツォが申し出た。
「媒酌人(ばいしゃくにん)はわたくしが務めさせていただこうと考えておるのですが‥ わたくしもヴェネツィアに帰らなければなりません。 そこで、明後日(みょうごにち)にでも式を挙(あ)げられればと――― 」
「じゃあ、盛大な式にしましょう! わたしも、お手伝いしますわ 」
そう申し出たのはエルレヴァだった。
「だ‥ 大丈夫でしゅか‥? もう、あと何日かで出産なんでしゅよ 」
心配そうに尋(たず)ねるサミーラに、エルレヴァはパンパンに膨(ふく)れ上がったお腹をさすりながら答えた。
「大丈夫、大丈夫。 この子はまだまだ産まれる気がないみたい。 産まれるのは、もう少し先になると思うわ。 それにサミーラの結婚式だもの、それぐらいはさせて♡ 」
「あ‥ ありがとうございましゅ 」
サミーラのフランス語の訛(なま)りも、ずいぶんと取れてきたようだ。
ロベール伯爵はちょっと自慢げに頼純に伝えた。
「わたしとエルレヴァも、もしかすると結婚できるかも―――なんですよ 」
「え!? それは凄い 」
「平民と貴族が結婚できるんですか? 教会がお認めくださるんですか? 」
訝(いぶか)しげな顔のロレンツォに、ロベールは笑顔で返した。
「以前から、ジョヴァンニ枢機卿(すうききょう)にもお願いしていたのですが‥ エルレヴァがファレーズの街を救った事が高く評価され、ヨハネス19世教皇様からお許しがいただけそうなんです 」
「それは良かった! じつにめでたい 」
その場の一同は、我が事のように喜んだ。
だが、喜びに満ち溢(あふ)れた彼らの前には、すでに目に見えぬ暗雲が立ち籠(こ)めていたのである。
× × × × ×
かつて、不良グループとしてファレーズの鼻つまみ者達であった『カラス団(コルブー)』は、『幼児誘拐事件』の解決と今回の『傭兵(ようへい)騎士団事件』の活躍によって、今や街の英雄となっていた。とくにゴルティエは、命を張って街の建物に火をつけて廻った勇気と、その端正な容姿から、たいそう人気が高かった。
ましてや、その傭兵(ようへい)騎士団に屈することなく、敵の全滅作戦を成し遂(と)げた姉―――エルレヴァの人気はなおの事である。
彼女の不屈の意志と奇抜な着想によって、数多くの人々が救われた。エルレヴァはこの街の救世主―――聖女となっていたのだ。
ドラゴン退治をしたロベール伯爵も人気があったが、今は彼女の方がずっと上だった。
娯楽に乏(とぼ)しい時代である。人々は誰かを英雄にしたがり、その英雄の噂話で盛り上がるのだ。
そうなってくると、ファレーズの多くの人々が、ロベール伯爵とエルレヴァが結婚して、お腹の子供がこの地の次の領主となる事を望みはじめる。
だが、平民のエルレヴァが伯爵夫人になる事は、そう簡単な事ではない。ノルマンディー大公リシャール3世とカトリック教会の承諾(しょうだく)が必要なのだ。
ただ、兄リシャール3世は『傭兵(ようへい)騎士団』の件でエルレヴァと面談し、その資質を認めて、二人の結婚を『致し方なし』としていた。
問題は教会である。
ここで言う教会とは、ローマキリスト教教会のことであり、その頂点―――教皇ヨハネス19世から結婚の特別許可を取り付けなければならないのだ。
しかし、これは簡単な判断ではない。
リシャール3世に万が一の事態が生じた際には、大国ノルマンディー公国の公爵となる人物の結婚である。相手はそれにふさわしい女性でなければならない。
教義に縛られ、たいへん保守的だったローマ教会は、慎重にも慎重を重ね、協議を繰り返していた。
そんな中、エルレヴァの父・革なめし職人(ペルティエ)のフルベールは、娘の結婚のために一肌脱ぐ事にした。
当然であろう。平民の中でも、人々から嫌われる革なめし職人(ペルティエ)の娘が、伯爵夫人になろうかという瀬戸際である。多少の物は手放してでも、何とかしなければならなかった。
そこで、彼は3ヶ月ほど前に行動を起こした。
温かくなり始めた春先、燃え尽きたファレーズの瓦礫もかたづき、新しい街の建設が進む中、フルベールは焼け残った自分の屋敷に20人ほどの町民を集めたのだ。
何を言われるのだろうかとドキドキしている彼らに、フルベールはため息とともに切り出した。
「オメーらの借金な‥ ありゃ、もういいから 」
その場にいるのは、フルベールから金を借りている大口債務者ばかりだった。
「は‥ はい!? 」
「だから、もう払わなくてもいいって言ってんだよ! 」
しかし彼らは、フルベールの言葉を勘違いした。
「ああ‥ それはありがとうございます 」
「こんな時期ですから‥ 利息を待っていただけるのは本当にありがたい事です 」
「ですが‥ 商売も再出発したばかりで、まだまだ生活に手一杯なんです 」
「ですから、元金の返済もいつの事になるのやら――― 」
フルベールはやや切れ気味に言い放った。
「違うよ! 俺(オラ)ァ、金貸しをやめるんだ。 だから、これからは俺に金を払う必要がネーって事さ! 」
「え!? ど‥ どういいう意味ですか? 」
「おっしゃってる事が、よく判らないのですが‥ 」
「だから‥ 全部チャラだよ、チャラ! 利息も元金も、全部なし。 全員、借金を棒引きにしてやるっツってんだ! 」
「ええ~~~え‼ 」
驚愕(きょうがく)する債務者達に、フルベールは忌々(いまいま)しげであった。
「ったく‥ くそったれが! 」
「し‥ しかし、そんな事をしたら、フルベールの親方は大損をするんじゃねェんですか? 」
「ああ、大損だよ! すっからかんだ。 なんか、文句あっか? 」
「い‥ いえ‥ 」
「わかったら、とっとと帰(けー)りやがれ! それから、今日ここに呼ばなかった奴らにも、オメーらからそう伝えてやるんだ。 オレからの借金は全部なくなったってな! 」
「は‥ はい! 」
一同は半信半疑で、フルベールの屋敷を出た。
そして、翌日に彼の話が本当だと確認されると、それから街はドンチャン騒ぎの祝宴となった。ファレーズの約6割の住民が、毎月無理やり支払わされてきた、あのきつい取り立てから解放されたのだ。
もちろん、フルベールに悔(く)いがなかろうはずはなかった。
彼が債権放棄した総額は、一家4人が10年間、贅沢三昧(さんまい)の生活を続けられるほどもあったのだ。そして、金貸しをやめる事で失う未来の利益は、それをはるかに凌(しの)ぐであろう。
彼の収入の半分以上が、この金融業によって成り立っていた。
しかし、キリスト教では教徒間の金の貸し借りで、利子(りし)を稼(かせ)ぐ事が禁じられている。『兄弟に利息を取って貸してはならない』という教えがあるからである。
それゆえに、『金貸し』をやるキリスト教徒は非常に嫌われた。
金融業者の多くがユダヤ人だったのもそのせいである。
フルベールは、伯爵妃候補の父が、キリスト教徒から嫌われ、蔑(さげす)まれる商売をしていてはならないと考えたのである。
そこで、この膨大(ぼうだい)な資産を放棄する事にした。
それは、娘エルレヴァとロベール伯爵との結婚のためではあったが、娘に対する『愛』ゆえの行動というわけでもなかった。
フルベールはそれほど殊勝(しゅしょう)な男ではない。
これまで、さんざん街の嫌われ者として生きてきたのだ。
『これからは伯爵妃の父として、人々から尊敬されたい』―――などと考えるはずもなかった。
そう簡単に、自分の生き様や信条は変えられないのだ。
ロベール伯爵はノルマンディー大公リシャール3世の弟である。
同じ伯爵でも、他の貴族とは格が違う。ひょっとすれば、公爵になるかもしれない人物なのだ。
そんな男の下(もと)へ娘が嫁(とつ)げば、金貸しよりもっとうまい汁があるに違いない―――フルベールがそう考えてもおかしくはなかった。
これを機にさらに大きな力を手に入れようと、虎視眈々(こしたんたん)と狙っていたのかもしれない。
彼は大金をはたいて、ロベール伯爵の将来に賭けたのである。
まさしく『奇貨(きか)、居(お)くべし』―――フルベールこそが呂不韋(りょふい)だったのである。
それに、彼が金融業をやめたとしても、収入の術(すべ)が断たれるわけではない。
これからも革なめし職人(ペルティエ)の親方は続けていくし、職人組合(ギィルダ)の幹部でもある。
さらには、ロベール伯から購入した市(マルシェ)の開催権は、何もしなくてもフルベールに莫大な富をもたらしてくれるだろう。
ちまちまと面倒くさい借金の取り立てなどしなくても、きちんと大金が転がり込んでくるのだ。
そして、彼にどのような邪念や下心があったとしても、街の人々がそれを喜んで迎入れた事に変わりはなかった。
フルベールの評判は一気に跳ね上がった。マイナスから大きなプラスへと転じたのである。
これによって、ロベール伯爵とエルレヴァの結婚はさらに近づいていく事になる。
× × × × ×
『領主の館(メヌア)』内にある礼拝堂(シャペラ)では、この神の家を管理する助祭のジロアが悶絶していた。
「ああ‥ エルレヴァ殿はすでに臨月(りんげつ)。 間もなくお世継ぎをご出産なさってしまいます。 アナタはどうされるおつもりか? 」
ジロアの口調が突如代わり、彼は荒々しい声で怒鳴った。もう一人の人格・トマの登場である。
「ンな事言ったってしょうがネーだろう? あれ以来、エルレヴァの周囲には、異教徒の女や傭兵達が引っ付いてやがって、ぜんぜん近づくチャンスがネーんだからよ! 」
「そ‥ そんな無責任な! アナタが、必ず彼女に堕胎(だたい)薬を飲ませて、子堕(こお)ろしをしてやるからっておっしゃったから‥‥ わたしは、それを信じていたのに‥‥ 」
1つの肉体を、単なる容器(いれもの)として共有してきたジロアとトマは、同時に出現できるようになっていた。つまり、全くの別人格同士で会話が可能なのだ。
「バァ―――カ! んなモン、オレみてーな野郎の言う事を信用したオメーが悪いんだよ! 」
「じょ‥ 冗談じゃない! どうするんだ? どうしてくれるんだよ!? だったら、わたしが胎児(たいじ)を刺し殺してやる。 ダ‥ ダメだって! そんな事をしたら、エルレヴァ殿が死んでしまうじゃないですか。 ケッ、あの女が死のうと生きようと、オレの知った事か! テメーは、生まれてくるお世継ぎが気に入らないんでしょう? 」
「‥‥‥‥ 」
「そ‥ そうだよ。 何をやったって、エルレヴァ殿を手に入れる事はできやしネーんだ。 だったら、わたしの愛を裏切った象徴である、あのガキを殺してやりゃあ、とりあえず溜飲(りゅういん)も下がろうってもんだぜ! 」
「‥‥‥‥ 」
「‥‥‥‥ 」
2人は何か異変に気づいた。
「あ‥ あれ!? お‥ おかしくないですか? アナタが『わたし』っていうのは―――? 言葉遣(づか)いもなんだか変ですよ 」
「いやいやいや‥ それは、オメーの方だろうが!? オメー、『ガキを殺してやる』って言ってたじゃネーか 」
「何言ってんだよ? それはアナタが言ったんだろう 」
「いや‥ テメーが――― 」
ジロアもトマも混乱していた。
自分がどちらなのかが、分からなくなってきたからである。
トマとジロアの境界線は、以前から少しずつ曖昧(あいまい)になりつつあった。
それがここに来て、一気に加速しはじめたのだ。
それぞれの人格に相手方の人格が流れ込み、混ざりはじめていた。おそらく、近い将来2人はそれぞれ融合してしまうだろう。そしてより強い人格―――凶暴、凶悪なトマが2人を支配するに違いない。つまり、1つの肉体の中に、2人のトマがいる状態となるのだ。
それは、とんでもないモンスターが形成される事を意味していた。
一方、消えゆくジロアにとって、それは大いなる恐怖であった。このままでは、自分の存在が消滅してしまうからである。
頭や胸が激しく締め付けられ、身悶えするほどに苦しかった。
「いやだ―――ア‼ わたしの人格こそが、本物のわたしなんだ。 わたしを消すな! わたしはまだ生きていたいんだ 」
「けど、お前の人生は嫌な事、苦しい事、悲しい事の連続だったじゃないか。 そしてそれは、おそらくこれからも続くだろう。 だったらいっそ、このまま消えた方が楽になると思うぜ♡ 」
「ヤダヤダヤダヤダヤダ―――ヤダ! 」
彼は叫び声を上げながら、しばらく床を転げ回っていた。
そして気を失ってしまったのだ。
長い長い静寂(せいじゃく)の果てに、倒れていた彼はゆっくりと体を起こしていった。
表情は疲れ切っていたが、その目には何かを決意した光が宿っている。
大きく深呼吸すると、その吸った息とともに言葉を吐き出していく。
「あの女の子供はぶち殺す! その時にエルレヴァが邪魔なら、まとめて殺してやるダケだ 」
「ヒャッホー! やったぁ! 最高だぜ♡ 」
2人のトマが言った。
そこにジロアの面影は見当たらなかった。