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1027年 ファレーズ・フルベール邸
何十頭もの軍馬が駆(か)け廻(まわ)る地響きと、たくさんの人々が上げる悲鳴や叫び声は、フルベールの大きな屋敷の中にもはっきりと聞こえてきた。
サミーラは長年の経験から、それが大規模な戦闘の始まりだと気づいた。
「ちょっと、外の様子を見てきましゅ 」
彼女は屋敷の周囲を確認しに行った。
案の定(あんのじょう)、板塀の外では人々が虐殺(ぎゃくさつ)され、家々に火が放たれている。
サミーラはすぐにエルレヴァの元へ戻ると、
「この屋敷の周囲で、大きな戦闘が始まっていましゅ 」
と状況を説明した。
エルレヴァはその言葉に大いに驚いた。
「え!? いったい、誰が‥ なぜ攻めてきたの? 」
しかし、その問いにサミーラは小首を傾(かし)げるばかり。
「しゃあ‥? 何も判りましぇん‥ ただ、多くの住民が殺しゃれ、町は火事になっていましゅ 」
その話を聞きつけたエルレヴァの母―――ドゥダが慌(あわ)てて駆(か)け寄ってきた。
「じゃ‥ じゃあ、すぐにここから逃げ出さなきゃ! な‥ 何を持って逃げたらいいのかしら‥? 」
サミーラはドゥダを落ち着かせた。
「お待ちくだしゃい。 このような場合、しゅぐに行動を起こしゅ事はたいへん危険でしゅ。 もう、ちばらく様子を見まちょう 」
それは、危険な旅を続けてきた彼女ならではの忠告であった。
その事は、エルレヴァをとおして、屋敷の女中や革なめし工場の職人達にも伝えられた。このまましばらく屋敷の中にとどまるよう指示したのである。
革なめし職人フルベールの屋敷は、最下層の貧民街に建っていた。
悪臭を放つ革なめし業のため、街の人々が近隣にある事を拒(こば)んだせいであった。
フルベールが、周囲のあばら屋とはかけ離れた、ひときわ豪華な屋敷をこの町に建てたのも、貧民街に追いやられた怒りが原因であったのかもしれない。
その貧民街が大炎上し、そこから昇り立つ大量の煙は、広々とした屋敷の中にまで侵入してきた。
室内にまで流れ込んできた煙に、使用人達は混乱をきたした。
「け‥ 煙だ! 煙が入ってきた! 」
「燃えている。 ここにも火がついたのよ! 」
「もう、無理! 私は逃げる! 」
「俺も逃げるぜ! 」
一瞬にして恐怖に駆(か)られた使用人達は、エルレヴァやサミーラの忠告を無視して、我先に表へと飛び出していった。
「ま‥ 待って! 」
サミーラは彼らの後を追い掛けた。
使用人らは正門と裏門に別れて、閂(かんぬき)をあけるや、外へと飛び出していく。
だがその刹那(せつな)、すぐに騎馬兵達に発見されてしまった。
「まだ、いたぞ! 」
「コッチに8人! 」
「向こうに10人ほどいる! 」
門から飛び出した使用人達は、騎馬から必死に逃げようとした。だが、「ギャー! 」、「グバッ! 」などと、怒号(どごう)とも絶叫ともつかぬ声を上げてその場で斬り殺されていったのだ。
そのまま5頭の騎馬は屋敷の中庭に侵入し、裏口から逃げようとしていた女中達の方へと走っていった。
何人もの断末魔(だんまつま)の声がさらに響いた。彼女達は殺されたものと思われる。
サミーラは物陰に隠れながら、その様子を確認していた。
彼らを助けようにも、騎士が5人もいては、サミーラでは勝てない。 そもそも、彼女は武器を持っていないのだ。唯一、かんざし代わりに髪に挿(さ)した笄(こうがい)が1本あるだけ。ここは、無意味な戦闘は避けるべきである。
やがて、しばしの静寂(せいじゃく)が訪れた。遠くで悲鳴が聞こえるばかり。騎士達も立ち去ったようである。
煙はさらにその量を増し、中庭に充満している。。
その白煙にけむった中、今度は歩兵らしき男たちの声が近づいてくる。
「ここだ、ここだ! 」
「確か、この大きな家に伯爵の女が住んでるはずだ! 」
「女は身ごもってるそうだ。 拐(さら)えば2人分の身代金が取れる 」
男たちの会話に、『まずい 』と思ったサミーラは、静かに、しかし素早くエルレヴァ達の待つ部屋へとって返した。
「ひい! 」
サミーラが戻ると、部屋の隅に固まっていたエルレヴァとドゥダが脅えた顔で悲鳴を上げた。彼女を殺戮者(さつりくしゃ)と勘違いしたようである。サミーラは立てた人差し指を口にあて、大きな声を出さないように示した。
そして二人に近づくと、申し訳なさそうに謝った。
「ごめんなちゃい。 あたちは判断を間違ったかもちれましぇん。 すぐに逃げるべきだったのかも‥‥ 」
その言葉に、ドゥダは目を三角にして怒鳴りつけた。
「いまさら、何を言ってるんだい。 お前がジッとしてろって言ったから、あたし達はこうしているんだよ。 どう責任をとるつもりだい! 」
「まあまあ、お母さん‥ 落ち着いて 」
興奮する母親をエルレヴァがなだめた。
「あの時、すぐに逃げ出していたとしても結果は同じ事だったわ! きっとあたし達は殺されていた。 いま大事な事は、これからどうするかって事。 どうやって生き延びるかよ 」
ドゥダは急に泣き出した。
「もうダメなの? 私たちは死ぬのかしら? 」
エルレヴァは、そんな母の肩に手を乗せるとはげました。
「大丈夫よ。 あたしがついてるから、安心して 」
だが、彼女自身の指先も恐怖にプルプルと震えていた。
エルレヴァはやや緊張した面持(おもも)ちでサミーラを振り返った。しかし、その目には力強い光が宿っている。心の内にある恐怖を懸命(けんめい)に押さえ込んでいるのだ。
「で‥ 状況は? あたし達はこれからどうすればいいのかしら? ここは、経験豊かなあなたに頼るしかないの 」
サミーラも動揺(どうよう)を沈めるように胸をさすってから、それに答えた。
「お屋敷は完全に包囲しゃれてちまいまちた。 しかも、敵はあなたを探ちていましゅ。 身代金誘拐が目的のようでしゅ 」
「‥‥‥ 」
「そこで‥ できるなら、夜までここに隠れていた方がいいと思いましゅ。 闇にまぎれて、ここから脱出するのでしゅ。 森へ逃げ込みましょう。 このお屋敷の中に、どこか隠れられるような場所はありましぇんか? 」
ドゥダが苛立(いらだ)った声を上げた。
「夜までって‥ まだ半日近くもあるんだよ。 悪党がこの子を捜し回っているってーのに、どこに隠れるんだい? そんな場所は、ウチにはないよ! それよりも、早くこの家から出ないと私たちまで焼け死んでしまう 」
「け‥ けど‥ このお屋敷から出れば、あたち達は捕まるか、殺しゃれてちまいまちゅよ 」
その時、エルレヴァが声を上げた。
「そうだ! あそこがある 」
× × × × ×
富裕層である城内の人々は、丸太の外壁一枚で隔(へだ)てられた外側で繰り広げられる殺戮(さつりく)に大混乱となった。恐怖に支配された彼らは、『領主の館(メヌア)』の中に入れてくれと懇願(こんがん)した。しかし、使用人、女中、下男まで含めると、その人数は1000人近くにもなる。とてもそんな大人数を収容する事はできない。
そこでピエトロは、貴族、騎士と金持ち、およびその家族、聖職者など約200人ほどを館内へ避難させる事にした。取り残された人々は、空堀の前で「いれてくれ!」と哀願(あいがん)し、泣き叫び、怒鳴ったが、彼にはどうしようもなかった。
ピエトロは年長者で戦闘経験も豊富であったため、この場の指揮を任(まか)されていたが、これらの判断をするのにふさわしい人物ではなかった。
なぜなら、これは戦闘ではなく、戦争であるからだ。そして、戦争とは外交の一手段であり、政治の一部なのである。
一介の戦士にすぎないピエトロに、政治的判断は荷が重すぎたのだ。
「私は王でもなければ貴族でもない。 だから、戦争をする権限や資格はないんだ‥ また難解な政治的判断をする資質も持ち合わせてはいない 」
ピエトロの周囲に集まった『カラス団(コルブー)』と兵士達は、彼の発言に注目していた。
「ただ‥ いくらわたしが為政者(いせいしゃ)でないとしても――――現時点で、エルレヴァ殿とそのお腹(なか)のお子を守る事が最優先事項であるという事ぐらい、十分理解している 」
ゴルティエが目を輝かせた。
「だ‥ だったら―――? 」
ピエトロは力強く頷(うなず)く。
「ああ‥ たとえ、この場にいるすべての兵力を失おうとも‥ この2人だけは必ず死守しなければならない。 エルレヴァ殿を救出する隊を編成しよう」
「ヨッシャ! 姉さん待ってろよ! 」
ゴルティエは上半身にグッと力を込めて、歓喜(かんき)した。
「なら、俺も行きます! 」
手を上げたのは、先ほどまでゴルティエを羽交(はが)い締めしていたグラン・レイだった。
その声とともに、『カラス団(コルブー)』の全員が「俺も、俺も」と手を上げた。
そんな血気盛んな青年達をフィリッポがなだめる。
「まあまあ‥ そう慌(あわ)てんなって。いくら、『すべての兵力を失っても』って言ったって、全員で行くわけにはいかねェんだぞ。 大人数で行動すれば、敵にすぐに見つかっちまう! だから、4、5人の小隊の方がいい。 救出は秘密裏(ひみつり)に行(おこな)われなければならないんだ 」
「は‥ はい 」
ピエトロは『カラス団(コルブー)』達の顔を見比べながら、救出隊の隊員を指名していった。
「そうだな‥ 屋敷までの道をよく知ってるゴルティエは決定として‥ そのサポートでグラン・レイ。 さらに、ブノア―――あと、フィリッポも頼む! 」
「了解! 」
ピエトロは付け加えた。
「フィリッポはエルレヴァ殿救出後、単独でファレーズから脱出―――ルーアンに向かって欲しい 」
「判ってるって! この状況をロベール伯爵とヨリ隊長に報告するんだろ。 そして、早急に救援を仰(あお)ぐ! まかせとけって! 」
フィリッポは自信タップリに胸を叩いた。
こうして、4人の救出隊は、閉ざされた『領主の館(メヌア)』から脱出し、外壁へと向うのであった。
× × × × ×
ファレーズの街を襲った謎の敵兵団は、いまだに逃げ遅れた者達を探し回り、殺し続けていた。
だが、いくら100騎もの騎馬軍団とはいえ、2000人もいる町民のすべてを殺せようはずもなく、彼らの大半は敵兵の刃(やいば)をかいくぐってファレーズから脱出していた。町民達は雪が降る中、広大な畑を渡り、森の中へと逃げ込んでいたのだ。
「コッチよ! 急いで 」
エルレヴァの先導でサミーラと母ドゥダは、同じ敷地内に建つ皮なめしの作業場へと向かっていた。
すでにフルベールの屋敷の中も煙で満ち溢(あふ)れていた。
裏庭にある作業場へ近づくと、サミーラはその強烈な臭いに思わず鼻を押さえてしまった。屋敷の中にいる時にはまだ我慢できたが、作業場はやはり猛烈な臭いが立ち込めている。
長年、この屋敷に住んでいるエルレヴァやドゥダでさえも、その臭いには顔を顰(しか)めるほどであった。
「ここよ! 」
エルレヴァは2人をその悪臭立ち込める大きな作業場へと導いたのだ。
だが、サミーラとドゥダは戸惑っていた。
なぜなら、作業場には屋根こそあるものの、壁がないからだ。
いつも20人ほどの職人達が働いているそこは、吹きっさらしで、外から丸見えなのである。
作業場には、皮に付いた油脂をこそぎ落とす際に使われる作業台が5つと、工具や薬品をしまう棚がいくつかあったが、隠れられるような場所はなかった。
革なめし職人 ヨースト・アマン画 1568年刊「職人づくし」より
「ど‥ どこに隠れるっていうの? 」
「あそこよ! あの中に入るの 」
エルレヴァは前方の地面を指差した。そこには、5ピエ(約1.5メートル)四方のプールが3つあった。
それは地面に深さ3ピエ(約90cm)ほどの穴を掘り、その周囲を漆喰(しっくい)で固めただけの簡素なものである。
プールは、なめし溶液が染み込んだ皮を数週間水に浸(つ)けて、溶剤を抜く工程で使われる。それぞれの中には、何枚もの牛皮、豚革が浮いている。
工程の中で、水は数度入れ替えられるが、一番奥に掘られた最終工程用のプールはほぼ真水で満たされていた。
「あの水に浸(つ)かった皮の下に隠れるのよ! 」
エルレヴァの提案に、ドゥダは信じられないとばかりに目を見開いた。
「はあ!? そんな事、できるわけないでしょう。 あれは水よ。 冷たい水なのよ。 雪が降るほど寒い中、冷たい水の中で何時間もジッとしてろって言うの? 」
「それしかないでしょう? 殺されるよりはマシだわ! 」
サミーラが不安げにエルレヴァを見詰めた。
「で‥ でも、お腹(なか)の赤ちゃんは大丈夫でしゅか? 流産してしまうかもちれましぇんよ 」
エルレヴァはお腹(なか)をさすりながら、自信タップリに答えた。
「大丈夫! この子はこの程度の事では死なないわ。 将来、悪魔を倒して、その島の国王になるんだから! 」
その時、大きな声が聞こえた。
「コッチだ、コッチ! 」
「おい! お前らは向こうを探せ! 」
「どんな事をしても、女を見つけ出すんだ 」
3人の女性は、すぐさまプールの中へと飛び込んだ。