第77話 1027年 ファレーズ・ティボー邸


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 1027年 ファレーズ・ティボー邸


ここを開けてくれ! 」
助けてください! 」
中に入れてちょうだい! 」
 『領主の館(メヌア)』の城門周辺に集まった500人を超える人々は、口々に城内への受け入れを懇願(こんがん)した。
 しかし、門は固く閉ざされ、けっして開かれる事はなかった。
 『領主の館(メヌア)』に入城を許された者は貴族や金持ち、聖職者だけではない。2人の医者と9人の鍛冶屋(かじや)、3人の大工とその家族らが含まれていた。彼らは数ある技術者の中でも特別な存在であった。パン屋や革なめし職人、理髪師などよりも、はるかに地位が高かったのだ。
 理髪師にいたっては、当時外科を担当する医療従事者でもあった。にもかかわらず、医者・鍛冶屋(かじや)に比べてその身分はずっと低かったのである。
 そして、このファレーズで一番の医者であるシュザンヌもまた、『領主の館(メヌア)』の外にいた。
 ただし、彼女の場合は、街の誰一人として彼女が医者である事を知らなかったからなのだが‥‥‥。

 執事(アンタンダン)であるティボーの屋敷に間借りしていたシュザンヌは、そこで医学書の翻訳とその研究・実験などを行(おこな)っていた。しかし、一般の治療行為は一切やっていなかったのだ。
 エレーヌの森の『子堕(こお)ろし婆(ばあ)・シュザンヌ』は、あくまでも謎の老女であり続けなければならなかったからである。
 そこで彼女の正体は、頼純とロベール伯、ティボーとその兄・エルキュールだけの秘密にされていた。

 その日も、シュザンヌは屋敷の二階で薬の効能を確認していた。
 その時、大きな地響きとともに謎の騎馬団が攻め込んできたのである。
 高台に建つティボーの屋敷からは、すべてが見渡せた。
 怒濤(どとう)のごとく攻め寄せた敵兵の様子も、それを門を閉じる事でギリギリ押しとどめたピエトロ達の事。その騎兵達によって城外の住民が次々と殺されていく光景。さらには、城外の町で大規模な火災が発生し、それに脅えた城内の人々が『領主の館(メヌア)』に詰めかける有様など―――そのすべてを観察していた。
 そして、彼女はすでに大量の怪我人(けがにん)が発生している事を予見し、傷薬(きずぐすり)や火傷(やけど)の薬を準備していた。
 この非常事態に、彼女はついに治療行為を行(おこな)う決心をした。
 それは、わずかな間だけなら、『子堕(こお)ろし婆(ばあ)・シュザンヌ』である事もバレないだろうと考えたからだった。そのあとは、ふたたびエレーヌの森に戻ればいい。
 そんな彼女がふと窓の外に目をやると、『領主の館(メヌア)』からコッソリと抜け出してきた数人の若者達が見えた―――広場で何度か見かけた事のある彼らは、ヨリの部下と町の若者達であった。

     ×  ×  ×  ×  ×

「いまだ、走れ! 」
「コッチだ、コッチ! 」
 『領主の館(メヌア)』の隠し扉から脱出したゴルティエら4人の救援隊は、城下の住民の目を避(さ)けるようにして、町の中を移動していた。
 恐怖に混乱した住民らに見つかれば、どんな騒ぎになるか予想できないからである。
 大半の住民は館(やかた)の前で騒いでいたが、それでも町のアチコチには逃げる準備のため、走り回っている人々がかなりいる。彼らの視線を躱(かわ)す事は容易ではなかったが、ゴルティエらはなんとか外城壁までたどり着く事ができたのだ。
 そんな事が可能となったのも、日頃の『探索方(たんさくがた)』の訓練の賜物(たまもの)であったのだろう。
 ゴルティエ、グラン・レイモンド、ブノアの三人はいつもの黒い服の上に防寒用の黒いマントを羽織っていた。フィリッポも灰色の鎧下(ガンベゾン)を着ている。 これならば、黒く燃え尽きた城下でも目立たないであろう。
 ゴルティエ達は、城門の横に置いてあった長い長いハシゴ2本を発見した。それは城壁の補修用に用意されていたハシゴである。
 彼らはそれを担(かつ)ぐと、城壁の西側へと移動していく。そしてハシゴを背の高い丸太の城壁に立て掛けると、静かにその上まで登っていったのだ。
 丸太塀の高さは30ピエ(約9メートル)ほどあった。
 城壁の上からこっそり下を見下ろすと、あたりに敵兵はいない。ただ、殺された人々が流した血の臭いと、燃え尽きた家々から立ち昇る煙の臭いが鼻を刺激する。
 丸太の塀は、火災の熱でかなり熱くなっていた。このまま放っておくと、発火する可能性も十分にある。城内の住民が怯(おび)えたのも当然であった。
「じゃあ、降(お)ります 」
 『領主の館(メヌア)』から背負(しょ)ってきた長いロープを丸太にしっかり結びつけると、まずはゴルティエとグラン・レイモンドが城外へと降(お)りていった。
 これほどの高さの塀だと、昇る事は無論の事、降(お)りる事でさえ簡単ではない。ただ、これまでの二ヶ月間、彼らの訓練のほとんどは、塀を昇ったり、降(お)りたり、物陰に隠れたり、走ったりする事であった。
 以前ならば、ロープで擦(す)れた手のひらはすぐに血まみれになり、やがて力尽きて、地面に叩き付けられていたであろう。それが今や、この程度の昇り降りならばお手の物となっていた。
 地面に降(お)り立ったゴルティエとグラン・レイはもう一度注意深く周囲を確認した。あたりは白い煙が充満し、人影はない。
「大丈夫だ。 早く、降りて! 」
 二人はロープを引き、上のフィリッポ達に合図をした。
 その時、煙のカーテンが突如破られ、ゴルティエ達の前に一頭の騎馬が出現したのだ。
「見いつけた♡ 」
 騎士は鼻当てが付いた兜(カスク)の下で口を歪(ゆが)めて笑っていた。
「まぁだ‥ 活(い)きのいいのがいたんだな!? どこに隠れていた? 」
 馬上の男は、ゴルティエ達が塀を乗り越えてきたとは思ってないようだった。
「あ‥ いや‥ 」
 ゴルティエはそれ以上言葉が出なかった。
 全身鎖帷子(オベール)で覆(おお)われた騎士は、血まみれの剣を振り上げた。
「まあいい‥ そんな事を聞いたって何の意味もないからな。 お前達はこれから死ぬんだ! 」
 剣にべったりと付着した血は、彼が何人もの住民を殺してきた証拠であった。
 騎士は馬の腹を蹴ると、ゴルティエ達に突進してきた。
「ヤッ! ヤッ! ヤッ! 」
 だが、ゴルティエもグラン・レイもナイフしか持っていない。二人にとって、絶体絶命の窮地(きゅうち)であった。
 ゴルティエは騎士を見詰めたまま棒立ちになっている。
 そんなゴルティエのもとへ、大きな騎馬が迫(せま)った。
 騎士が剣を振り下ろす。
 その刃(やいば)はゴルティエの側頭部に襲いかかった。
「きた! 」
 その声と同時に、ゴルティエは上体を素早く傾(かたむ)けると、その攻撃をなんなく躱(かわ)したのだ。剣の切っ先に触れた数十本の髪の毛だけが宙を舞った。
「なにィ!? 」
 剣が空(くう)を斬った事で、騎士は驚嘆(きょうたん)していた。
 これもまた訓練のお陰である。ゴルティエは敵の攻撃を恐れる事なく、その剣の軌道を確認する事ができていた。また、反射神経も驚くほどに向上していたのだ。
 その一方で、そもそも騎士の攻撃はかなりおおざっぱなものであった。彼はこの二人の事を、そこらにいるチンピラぐらいにしか考えていなかったからである。
 ゴルティエの脇をいったん通り越した騎士は、手綱(たづな)を返すと馬をふたたび彼らの方へと向けた。
「むむむむ‥ こしゃくな! 次は容赦(ようしゃ)せんぞ 」
 その目はもう笑っていなかった。
 騎士は二人の若者が並の者でないと悟ったのだ。それは次の攻撃が本気で仕掛けられる事を意味していた。もう、その刃(やいば)から逃れる事は簡単ではないだろう。
 ふたたび、馬はゴルティエに向かって走り出した。
「さあ、来い! 」
 ゴルティエは圧倒的に不利であった。だが、何の根拠があったのか、彼は手にしたナイフを構えたのだ。
 騎士が険しい表情で剣を振り上げる。
「死ね! 」
 次の瞬間、2本の弓矢が空(くう)を切り裂いた。
 その1本が剣を振り下ろそうとした騎士の胸に深々と突き刺さる。もう1本ははずれたようであった。
「ガッ! 」
 それでも騎士は馬から落ちなかった。剣をゴルティエの頭頂部めがけて振り下ろしたのだ。
「俺の事を忘れちゃいネーか! 」
 そう言いながら、グラン・レイは走る馬の脇腹にナイフを突き立てた。
 騎馬はいななきとともに、後ろ足で大きく立ち上がる。
 これには、さすがの騎士も堪(た)えられず、鞍(くら)から振り落とされた。
「ブバッ! 」
 激しく地面に叩き付けられた騎士にゴルティエが風のように駆け寄る。
 彼は騎士の腹にまたがると、左手で兜(カスク)を押さえ、右手のナイフをその左目に根元まで突き刺した。
「ググガッ! 」
 騎士はそれで絶命した。

 弓を肩から斜めがけにしたフィリッポとブノアが、ロープを伝って下りてくる。
 着地したブノアを、近づいたグラン・レイがからかった。
「お前の矢‥ はずれただろう!? しっかり援護(えんご)してくれなきゃ 」
 その隣に降(お)り立ったフィリッポが、ムスッとした顔で振り返った。
「いや‥ はずしたのは俺の方だよ。 弓は苦手でね 」
「あ! 」
 『しまった』という顔をするグラン・レイに、ブノアは声を出さずに『ダメっすよ 』と口を動かした。
 鎖帷子(オベール)は、長剣(エペ)による斬りつけ攻撃には強かったが、ナイフや弓矢など細い物による突き刺し攻撃に対して弱かった。そこで騎士(シュバリエ)は盾を使って補(おぎな)う必要があったのである。
 フィリッポは死んだ騎士の傍(かたわ)らにしゃがみ込むと、その持ち物を調べはじめた。
「ダメだ。 何もない‥ 」
 彼は小さく首を振りながら立ち上がった。その騎士(シュバリエ)は自分の身分を示すような物を何も持っていなかったのだ。
「この死体を放っておくと、仲間が発見して騒ぎになるだろう。 どこかに隠した方がいい 」
 フィリッポの指示にゴルティエが答えた。
「じゃあ、素っ裸にして‥ 燃えた家の中にでも突っ込んでおきましょう。 煤(すす)で真っ黒になって、見つかってもすぐには殺された町民と見分けがつきませんよ 」
「なるほど! それがいい。 じゃあ、そうしてくれ 」
 4人は手早く騎士(シュバリエ)を裸にしていった。
 そして、グラン・レイとブノアの二人が裸の死体を担(かつ)ぐと、まだ煙が立ち昇るがれきの中にそれを押し込んだ。その上に燃えた材木や土壁を乗せて、より見えないように隠したのだ。
 二人を待つ間、フィリッポは騎士(シュバリエ)から剥(は)ぎ取った鎖帷子(オベール)を装着していた。彼は敵の騎士(シュバリエ)になりすまし、3人の捕虜を連行するフリをしようと考えていたのだ。
 ゴルティエはさらなる敵の出現を警戒し、あたりを見張っていた。
 その目に映(うつ)るファレーズの町は、騎士団に蹂躙(じゅうりん)され、その様相はすっかり変わっていた。産まれてから、ずっとこの街で生きてきたゴルティエにとって、それは悲しく、腹立たしい事であった。
 一方、フィリッポも街の変わり様に驚いていた。頼純からの命令で、彼も街の配置は把握していたのだが、こうなっては何が何やらさっぱり判らない。
 やはり、ゴルティエ達のようにファレーズに精通したものでなければ、ここから先へは進めないであろう。だからこそ、ピエトロは戦闘ではまだまだ未熟な彼らを救出隊に選任したのであった。

 準備万端、一行がフルベールの屋敷に向かおうとした時、
「待って! 」
 背後で声がした。
 救出隊が声に振り返ると、ロープを伝って降(お)りてくる女の姿が見えた。
「私も連れてって。 町の様子が知りたいの 」
「って‥ アンタ、誰? 」
 4人の前に立った彼女は、ブノアの問いに答えた。
「あたしは医者よ。 シュザンヌって言います 」

     ×  ×  ×  ×  ×

「いないぞ、どこにもいない! 」
「確かにいたはずなんだが‥ 」
「屋敷の中はすべて確認したのか? 」
「全部見た。 表には出てないと思う 」
「絶対、どこかに隠れている 」
「探せ、探せ! 必ず見つけ出すんだ! 」
 3、4人の男であろうか、エルレヴァを探し回る声は、いつまでも続いていた。
 騎馬団が城門の突入に失敗したのは昼前であったが、それから下町の住民に対する虐殺(ぎゃくさつ)が始まる。
 さらに、この男達がフルベールの屋敷に入ってからもかなりの時間が経(た)っていた。日は傾(かたむ)き、夕暮れは近づきつつある。
 エルレヴァ、サミーラ、ドゥダの三人はずっと作業場のプールの中に隠れていた。
 物凄い悪臭を放(はな)つ作業場ゆえ、男達もなかなか近づこうとはしなかった。だが、油断はできない。
 彼女達は、水に浮かぶ何枚もの皮の下に潜(もぐ)り込み、ジッと息を潜(ひそ)めていた。動く事も、話す事も許されず、ただひたすら気配(けはい)を消す事に専念せねばならないのだ。
 雪が舞い散る中の冷水である。体の芯まで冷え切った彼女達は、時折気を失いそうになった。
 だが、日が沈めば、ここからの脱出が可能になる。あと、もう少しなのだ。

 エルレヴァは朦朧(もうろう)とする意識の中で、4ヶ月前、水車小屋で山賊達から襲われた時の事を思い出していた。
 あの襲撃者達は「伯爵を殺せ! 女には手を出すな! 」と言っていた。
 だが今日は逆に、伯爵がいないことを確認して、この街を襲撃し、自分をさらおうとしている。つまり、前回とは違う目的で違う人物が、伯爵や自分を狙っているのだ。
 なぜ、この街に恨みを抱(いだ)く者が次々と現れるのだろうか。
 いや、それよりもさらなる恐怖を感じるのは、一介(いっかい)の町娘にすぎない自分の事を両者とも知っていた事であった。

 そんな事を考えていたエルレヴァのお腹(なか)に突如、激痛が走った。
アツッ! ウウ‥ アウウウ‥ 」
 差し込むような大きな痛みに、彼女は呻(うめ)き声を上げた。
「だ‥ 大丈夫? 」
 サミーラが小声で尋(たず)ねた。
 ドゥダはカタカタと歯が鳴って、言葉すら発する事ができない。
 エルレヴァは『大丈夫、大丈夫 』と頷(うなず)いたが、その口からは痛みの声が漏(も)れていた。
 彼女の体は、骨の髄(ずい)まで冷え切っている。お腹(なか)の赤ちゃんに影響がないはずがなかった。
 彼女達はもう限界に来ていたのである。

「コッチで声がしたぞ! 」
 たまたま、作業場のそばを通りかかった敵兵は、エルレヴァの呻(うめ)き声を聞き逃さなかった。
 3人の女性達に緊張が走る。エルレヴァは苦しみながらも、口に手を当てて、必死に声を押し殺した。
 それでも兵士の足音は確実に近づいてくる。
「臭(くっ)せェなァ‥! 吐きそうだぜ‥ 」
 男は鼻を摘(つ)まみながら、隣のプールを覗(のぞ)き込んだ。
「ここか? 」
 そう言うと、水に浮いた皮を剣で何度か突き刺した。
「いないか‥ じゃあ、こっちか? 」
 さらに男は、エルレヴァ達が隠れているプールの傍(かたわ)らにしゃがみ込んだ。
 皮の下に潜(もぐ)り込んだ彼女達からは、角度的に兵士の姿は見えなかったが、鎖帷子(オベール)のカチャカチャいう音と、その息遣(いきづか)いで男がすぐそばにいる事はわかった。
「ここだ!? 」
 男は、一番上にある皮を一枚めくった。
 だが、そこには何もない。
「あれ、違ったかァ‥ おかしいなァ! 」
 男がさらにもう二枚、皮をめくる―――すると、エルレヴァの目と男の目が合った。
あ‥ 」
 男がニヤリとする。
「やっぱり、ここだった♡ 」
 だが次の瞬間、サミーラが水の中から飛び出してきた。
 彼女は、左手をその兵士の後頭部に回し、右手に握っていた笄(こうがい)を深々と首に突き刺す。
「あ‥ あああ‥ 」
 兵士は一瞬、何が起こったか判らないようだった。だが、サミーラが笄(こうがい)を引き抜いた時、彼は耳の横で噴き上がる血に気付き、自分が死に瀕(ひん)している事を悟ったのだ。
アカ‥ コ‥ ケ‥‥ 」
 何かを言おうとしながら、男はゆっくりとプールの中へ落下していった。
 それでも男はバシャバシャと水の中でもがいた。
 その水を叩く音に、仲間の兵士二人が気付き、作業場へと駆け寄ってきた。
どうした? 」
何があったんだ? 」
 もう、彼女達は逃げも隠れもできなかった。