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 1026年 アンデーヌの森


 ドラゴンは兵士をバリバリと音を立てて貪(むさぼ)り食った。
 頼純もロベールも、その凄(すさ)まじい光景に息をする事さえ忘れてしまった。それは、まさに驚愕(きょうがく)の光景であった。
「ド‥ ドラゴン‥ 」
 ロベールはやっと、言葉とともに息を吐き出した。
 巨大な口と巨大な尻尾(しっぽ)を持ったその姿は、ロベールがかつて教会で見た書物のドラゴンの絵とまったく同じであった。
 そして、そのドラゴンのあまりにも凶暴な姿に気圧(けお)されて、兵士が喰(く)われるところを目(ま)の当たりにしながら、まったく動けなかったのである。

「ホ‥ ホントにいやがったのか! 」
 頼純にとってもその光景は衝撃(しょうげき)的であった。
 だが彼はすぐに、このドラゴンと同じモノをかつて見た事を思い出した。
 もちろん、それはこれほど巨大ではない。半分にも満たない大きさであったが、間違いなく同じ形をしていた。
 それは、インドのカンガー(=ガンジス川)で見た『ワニ』という生き物である。中国の長江(ちょうこう)(揚子江)にも住んでいると聞いた。
 しかし、目の前にいるそれは、全長が7ピエ(約8.4メートル)をゆうに超えている。
 まさに、ドラゴンと呼ぶにふさわしい迫力であった。

 この先には、温泉が流れ込んだ沼がある。常に温かいその沼で、豊富な餌―――水場に集まる動物達をたっぷり喰(く)らい、長い歳月(としつき)―――おそらくは百年近くを掛けて、十二分に育ったに違いない。それで、このような考えられない大きさにまで巨大化したのだ。
 ワニは多くの大陸に生息するが、ヨーロッパにはいないハズである。おそらくは、インド・フィリピン、あるいはエジプトあたりから連れて来られたに違いない。
 孵化(ふか)したばかりの頃に香辛料のかごにでも潜り込んだのか、あるいは貿易商人がおもしろ半分にペットとして連れ込んだのか―――ともかく彼はこの地へやってきた。そして、この沼で異常発育をしたのだ。
 そのワニの口は、成人男性の全身をひと噛(か)みでくわえ込めるほどに巨大であった。

 一人目を食い終わったワニは、器用に鎖帷子(オベール)だけを吐き出した。すぐに二人目を食い始め、三番目の犠牲者にも前足を掛けて押さえている。
 ただ、食われている兵士は、幸いにもみなすでに死んでいた。先ほど、病人達と離しておいた六体の遺体であった。
 だが、ほかの兵士達も今は昏睡(こんすい)状態で動けない。現在の状況にまったく気づいていないのだ。このままでは、全員が喰(く)われてしまうかもしれなかった。
 その距離は、15ウナ(約18メートル)もないのだ。

 ワニが次の遺体を食べようとした時、カンカンカンという金属音が森の中に鳴り響いた。
 兵士を救おうとしたロベールが、拾った鍋(なべ)に自分の剣を打ちつけ、ワニの注意を引こうとしていたのだ。
「コッチだ、コッチ! 死にかけている者よりも、ワタシの方が活(い)きがいいぞ! 」
 彼の行動は頼純にとって意外であった。
 あのナヨナヨとしたロベールが、自分よりも先に勇気ある行動を示したからである。
 音に反応した巨大ワニはロベールの方へと顔を向けた。そしてノシノシと前進し始めたのだ。
「うううう‥ 」
 ロベールは急いで後ずさった。
 しかし、ワニは陸上でもかなり速く走れる。周辺の木々をへし折り、地響きを上げながらロベールへと迫った。
 後ろ走りではドラゴンに追いつかれると思ったロベールは、前を向いて本格的に走り出す。
 さすがに恐怖に襲われたようである。彼は鍋も剣も打ち捨てて、必死に走った。
ひ‥ ひィ~~~い‥ た‥ 助けてェ‥! 助けてェッッ‼ 」
 しかし、ロベールはすぐに追いつかれた。
 ワニは走りながらも、彼を喰(く)おうと巨大な口を開いたのだ。その口は、ロベールをひと飲みできるほどである。
 そのワニの上顎(うわあご)に剣が叩き付けられた。
 ワニは鼻先を強打され、一瞬ひるんだ後に、その犯人へと顔を向ける。
 そこには、両手にそれぞれ剣を握った頼純がいた。
「伯爵、コイツは俺が引きつける! だから、なるべく大きな木によじ登れ! コイツは木には登れない。 ちなみに、火も噴(ふ)けないから‥ 安心しろ‼ 」
 そう叫びながら、頼純は素早くワニとの間合いを取り、兵士から拝借した剣で二刀流に構えた。彼自身の太刀はまだ腰の鞘(さや)に収まっている。
「さあ、コッチだ。 かかってこい! 」
 ワニは巨体を軽々と動かし、頼純に向きを変えた。
 改めて対峙(たいじ)したワニは、圧倒的に巨大であった。その大きな体躯(たいく)は視界一杯に広がっている。
 ワニは、直(す)ぐさまに突進してきた。
 頼純はひるむ事なく身構える。
 だが、その大きな口がガバッと開かれると、頼純の全身に恐怖が走った。それは精神云々(うんぬん)を超えた、物理的な恐怖であった。
 ワニの口先を、咄嗟(とっさ)に身を翻(ひるがえ)す事で躱(かわ)した頼純は、今度はワニの太い首に思い切り右手の剣を叩き付けた。
 しかし、硬く弾力に満ちた表皮(ひょうひ)は剣などではびくともしない。ビーンと刃(やいば)がはじき返されてしまった。まるで、巨木を棒きれで思い切りひっ叩(ぱた)いた時のような感触である。
 次の瞬間、ワニの太い前足が頼純を襲い、吹き飛ばされた彼は背後の木に背中から激突する。
ぶあ! 」
 激しい痛みが、背骨から脳天へと突き抜けた。
 この時、頼純はやっと気づいた。相手がとんでもなく巨大で、とてつもなく凶暴であるという事を―――。


 巨大ワニの体高は4ピエ(約1.2メートル)を超えている。頼純の胸ほどもあるのだ。体重は彼の7,80倍はあるだろう。その巨大な口に生(は)えた50本ほどの牙は、一本一本がナイフのような切れ味である。
 改めて、間近にワニを目撃した頼純は、こんな怪物を相手にしてしまった事を大いに後悔したのだ。

 その恐怖と背中の激しい痛みで、頼純は木にもたれ掛かったまま、一瞬体がすくんでしまった。
 ワニはその期(き)を逃さず、長い上半身を捻(ひね)って禍々(まがまが)しい口を縦にすると、木もろとも頼純に喰(く)らい付こうとする。
 その時、離れた木を登っていたロベールが、振り返って絶叫を上げた。
「ヨリ殿、逃げてッ‼ 」
 ロベールの声にハッと我に返った頼純は、咄嗟(とっさ)に木の背後へと回り込む。
 ワニは頼純のいなくなった木の幹をバチンと噛(か)み付いた。
 鋭く尖(とが)ったワニの歯が、太い幹に深々と食い込んでいた。
 頼純を取り逃がした怒りを木にぶつけるように、ワニは強靱(きょうじん)な筋肉でグイグイと首を捻(ひね)り、幹の直径が1クデ(=1キュビット=約45センチ)はあるだろうその木を根元から持ち上げようとした。
 さすがに、木は地面から抜けこそしなかったが、根の上部1/3ほどが露出し、全体は斜めに大きく傾(かし)いだのである。とてつもない顎(あご)の力と首の力であった。
 頼純は、しつこく木に攻撃し続けるワニの横へと回り込み、その横腹に右手の剣を刺そうとした。
 だがそれよりも速く、ワニの尻尾(しっぽ)が頼純に襲いかかる。
 全長の半分近くを占める巨大な尻尾(しっぽ)を叩き付けられた頼純は、ふたたび大きく跳ね飛ばされてしまった。それは、突進してきた牛にぶつかったような、強烈な衝撃であった。
 飛ばされた頼純は地面を車輪のようにゴロゴロと転がる。
 倒木に激突してやっと止まった頼純は、そのまま白目を剥(む)いて意識を失ってしまった。

     ×  ×  ×  ×  ×

 ズドンズドン、メキメキ、バリバリと雷のような大きな音が、森中に響き渡っていた。
 その轟音(ごうおん)に、ジョルジュがやっと目を覚ます。
 激しい頭痛と目映(まばゆ)い光に、目がよく開けられない。呻(うめ)き声を漏らしているのだろうが、その声さえもよく聞き取れないのである。体もほとんど動かなかった。
 彼は昨夜まで、毒で死にかけていたのだ。
 ジョルジュは懸命(けんめい)にまぶたに力をいれ、なんとか薄目を開いた。
 そこには、巨大なモノが視界いっぱいに広がっている。
 それが、なんだか判らない。なんだか判らないが、それは動いていた。
 ああ、これは夢か幻覚(まぼろし)だ―――彼はそう思って再(ふたた)び眠りにつこうとした。
 その時、視界の隅(すみ)でヨリが動いている事に気づく。
 ジョルジュは朦朧(もうろう)とする意識に活を入れ、その光景に目を凝(こ)らしてみた。
「え!? 」
 そこにはドラゴンがいた。
 まごう事なく、本物のドラゴンである。そして、そのドラゴンとヨリは戦っているのだ。
 あまりにも非現実的すぎて、夢の世界の光景のようだった。
 だが、しだいにそれが現実の出来事である事が判ってくる。
「あああ‥ す‥ すごい‥ 」
 あまりの感動に、ジョルジュの意識は一気に覚醒(かくせい)した。

     ×  ×  ×  ×  ×

 ロベールは木になんとかよじ登り、5ウナ(約6メートル)ほどの高さまで避難していた。
 太い枝にしがみつくと、急いで下の様子を確認する。
 ヨリが倒木のそばで倒れていた。ピクリともしない。
 そのヨリに向かって、ノッシノッシとドラゴンが近づいていく。ドラゴンは上から見ると、より一層その巨大さが際(きわ)立った。
「ヨリ殿、起きて! ドラゴンが近づいています。 だから、早く起きて!」
 必死に叫びながらも、ロベールはそんなドラゴンと戦っているヨリの勇気が信じられなかった。
 先ほどは、家来を助けようと大きな音でドラゴンを引きつけてもみたが、もしヨリが現れてくれなかったら、自分は間違いなく喰(く)われていた。
 その事を思うと、恐ろしくもあり、悔しくもあった。
 ヨリが言ったように、ドラゴンが火を噴(ふ)く事はなかったが、そのあまりの巨大さと凶暴さ、その破壊力は、ロベールを恐怖のどん底へ突き落とすに十分であった。
 あの怪物では、たとえヨリでもけっして勝てはしないだろう。
 そんな事ぐらいヨリとて判っているハズなのに、彼は逃げもせず、ドラゴンに戦いを挑(いど)んでいるのだ。
 なぜ、あのような怪物に立ち向かう事が出来るのか‥‥ どれほどの勇気があれば、とてつもない恐怖を克服し、相手と向き合う事が出来るのか―――ロベールには計(はか)り知れない事であった。
 そして、今のロベールに出来る事といえば、けっして勝てはしないだろう頼純が、なんとかドラゴンに勝てますようにと、神に無茶な願いをするぐらいしかなかった。

     ×  ×  ×  ×  ×

 意識が戻ってきた頼純は朦朧(もうろう)としながらも、ワニの次なる攻撃の前に、なんとか態勢(たいせい)を整(ととの)えようと必死に立ち上がっていた。
 しかし、どこかで頭を打ったのか、目の前がグルグルと回り、上手く立てない。平衡(へいこう)感覚がおかしくなっていた。
 さらに、左胸部に激痛が走る。どうやら、肋骨(ろっこつ)が数本折れているようであった。
 左腕もほとんど動かない―――というか、全身が思うように動かなかった。
 たった二度の攻撃で、頼純は満身創痍(まんしんそうい)となってしまったのだ。
 その時、焦点がまだよく合わない目の前が急に暗くなった。
 そこには、大きく開かれた巨大なワニの口があったのである。