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1027年 ファレーズ城・礼拝堂
『領主の館(メヌア)』内の礼拝堂(シャペラ)では、助祭のトマが身悶(みもだ)えしていた。
恋い焦(こ)がれるエルレヴァが危機に瀕(ひん)していると聞き、彼は心配でしようがなかったのだ。
「もし、彼女の身に万が一の事があったらどうしよう? ああ‥ 主よ、どうかエルレヴァさんをお守りください 」
礼拝堂の中には、祭壇に祈りを捧(ささ)げるトマしかいなかった。
『領主の館(メヌア)』に入城を許されたファレーズ教会のエイマール司教らは、中庭で脅える200人近い人々を慰めていた。
その時、礼拝堂に力強い声が響く。
「おいおい‥ こんな時にだけ、神の名を口にするのか? いつもは悪魔(サトン)を崇拝(すうはい)しているくせに―――♡ 」
トマのもう一つの人格―――本当は、気が弱く、いつもビクビクと脅えた人格の方がジロアという名前で、暴力的で悪意に満ちた彼こそがトマという名前なのだが―――が嘲笑(あざわら)った。
「そ‥ それは、あなたの事でしょう。 わたしは別に悪魔(サトン)を崇拝(すうはい)しているわけじゃありませんから。 ただ、神を信じてないだけです 」
ジロアはそう言い訳をした。
「だ・か・ら‥ 神を信じてないオメーが、神に願い事をするのはおかしいっツってんだよ。 それに、俺とオメーは1人なんだぜ 」
と、トマが突っ込む。
それぞれの人格は、声色(こわいろ)まで違うのだ。
「わかりましたよ。 ならば、悪魔(サトン)様、悪魔(サトン)様‥ どうか、アナタ様の邪悪なるお力をもって、わたしの愛するエルレヴァさんをお助けくださいませ 」
「チッチッチッ‥ それも違うな。 サトン様、アナタの邪悪なる力を持って、エルレヴァだけをお助けください。 あの女の子供はいりません。 できれば、ついでに殺してください―――だろう!? 」
「ああ‥ なるほど! それっていいなァ‥ 伯爵様とのお子は死んでくれるとじつにいい。 それは、最高に幸せ(ボナー)だ‥ 」
夢見るようにうっとりと宙を見詰めるジロアに、トマは意地悪そうに尋(たず)ねた。
「じゃあ‥ もし、エルレヴァが生きて戻ったら、ジロアよ‥ オメーはどうするつもりだい? 何もしないのか? 」
「え!? それは、どういう意味ですか? 」
「子供だよ、子供! 忌々(いまいま)しいロベールとの子供さ。 俺達の力があれば、腹の子を殺す事だって可能じゃないか? 」
「だ‥ 堕胎薬(だたいやく)―――? 」
「そうだよ。 エルレヴァをさらって、無理やり薬を飲ませ、子供を殺しちまうのさ。 そしてその後は、誰も知らない土地に行って、二人だけで暮らせばいい♡ 」
「ふ‥ 二人だけで? そ‥ そんな‥‥ す‥ 素敵だ。 なんて、素敵なんだろう。 夢のようなお話です。 無上(むじょう)の幸福に違いない 」
「だろう!? だったら、そうしようぜ 」
「け‥ けど‥ そんな大それた事‥ とても私には―――そうですとも‥ 無理です。 わたしには無理だ。 そして、けっきょくあの人は伯爵様のお子を産み、三人で幸せに暮らしていくのでしょう 」
「まったく、オメーって野郎は‥ どうして、そう簡単にあきらめちまうんだよ! この俺様がついてんだぞ! 大丈夫だって。 俺がやってやるから。 俺がエルレヴァを誘拐して、堕胎薬(だたいやく)を飲ませてやる。 だから、安心しろって 」
「え!? 本当ですか? そんな事、お願いしてもいいんですか? 」
「ああ‥ 任せとけって! 」
暗い礼拝堂の中で、トマはずっと独り言を言い続けていた。
それはそれは、おそろしく不気味な光景であった。
× × × × ×
サミーラが殺した男は、プールに上半身を突っ込むと、最後にバシャバシャともがいた。
そして、その音を聞きつけた二人の兵士が作業場へと駆けつけたのだ。
「どうした? 」
「何かあったのか? 」
死んだ兵士は、エルレヴァの呻(うめ)き声を耳にした時点で彼らに声を掛け、二人はすでに近くを探索していたのだ。
プールの中で立ち上がっていたエルレヴァとサミーラは、この二人の兵士にいとも容易(たやす)く発見されてしまう。
―――彼女達はもはや絶体絶命であった。
「あ! シモンが―――」
「し‥ 死んだのか? 」
一人は剣を、もう一人は槍を構えた二人の男が、エルレヴァ達の元へ慎重に近づいてきた。仲間を殺された事で、二人の目は憎しみに燃えている。
「二人とも―――いや、三人とも水からゆっくりと上がれ 」
ずっと皮の下に隠れていたドゥダもすぐに見つかってしまった。
「ウウウ‥ 」
エルレヴァがふたたびお腹(なか)を押さえて苦しみだした。顔は真っ青になっている。
サミーラは、そんなエルレヴァを抱きかかえるようにして、プールから押し出した。そして彼女自身も、死んだ兵士の血で真っ赤に染まったプールから、ゆっくりとあがった。
ドゥダはガタガタと震えるあまり、何度も滑って、プールから出れなかった。サミーラは彼女の手首を掴(つか)むと、プールから引きずり出す。
冷たい風が吹き抜けていく作業場にへたり込んだ三人の女は、身を寄せ合うようにして、縮こまっていた。
男達は用心して、サミーラ達に10ピエ(約3メートル)以上は近づこうとしない。
「おい‥ シモンを水の中から引き上げろ 」
剣の男の命令に従って、サミーラはプールの中に上半身を突っ込んだ男を地面へと引きずり出した。ドゥダもそれを手伝ったが、鎖帷子(オベール)を着た男は女二人ではかなり重かった。
「シモンを仰向(あおむ)けにしたら、離れるんだ! 」
剣の男は、サミーラ達を死体から遠ざけると、用心深く彼女らに目を向けつつ、死体の傍(かたわ)らにしゃがみ込んだ。
ぱっと見、外傷はないようである。さらに、その胸に耳を当ててみる。
だが、心音(しんおん)を聞こうにも、分厚い鎧下(ガンベゾン)と鎖帷子(オベール)に邪魔されて、生死の判断は付かない。しかたがないので、つむった目を指で開いてみた。
槍の男が不安そうに尋(たず)ねる。
「ど‥ どうだ? シモンは無事か? 」
「―――うん‥ まあ、死んでるだろう 」
その答えに男の怒りが爆発し、槍をサミーラに突き刺そうとする。
「このクソ女が! 」
「待て! 」
剣の男がそれを止めた。
男は立ち上がると、びしょ濡れのサミーラを見下ろした。
「お前が、シモンを殺したのか? 」
「‥‥‥ 」
サミーラは何も言わない。ただ、険しい目で男を睨(にら)みつけるだけである。
「ああ‥ ウウウウ‥ 」
また痛みが激しくなったのか、エルレヴァはお腹(なか)を押さえて床に突っ伏した。
槍の男が、悶(もだ)えるエルレヴァの顎(あご)をその穂先で持ち上げる。
「こいつだ。 伯爵の子供を身籠(みご)もっているのは、この女だ! 」
剣の男はドゥダの方へ移動し、それを振り上げた。
「じゃあ、残りの二人は殺すぞ。 俺がババアをやる。 そっちの女は何をするか判らんから、槍のお前に任せた 」
「了解! オイラなら、近づく事なく刺し殺せるからな♡ 」
男を見上げたドゥダは、寒いからなのか、恐怖からなのか、カタカタと歯を鳴らしていた。一方、サミーラは観念したかのように、目をつむり顔を伏せた。
剣の男はニヤリと笑い、ドゥダの頭頂部に剣を叩き付けようとした。
「死ね! 」
次の瞬間、剣の男の胸に二本の弓矢が突き刺さる。
「ガッガッ! 」
その声に、サミーラを突こうと槍を引き絞っていた男が振り返った。
「ナニッ!? 」
槍男の左目と左脇腹にも1本ずつ矢が刺さる。
「クバッ! 」
弓矢に射貫(いぬ)かれた二人の男は、そのまま床に崩れ落ちていった。
「え!? 」
ドサリという音で、男達が倒された事を知ったサミーラとドゥダは、何事が起こったのかとあたりを見回した。
そんな二人の目に飛び込んできたのは、夕闇の中から現れたゴルティエら救出隊の姿であった。
フィリッポとブノアは、矢をつがえた弓をいまだ引き絞った状態で周囲を確認している。二人の敵を倒したのも彼らであった。今度はフィリッポもしっかりと的を捕らえたようだ。
彼は口で言うほど弓が下手なわけではない。前回は走る騎馬だったため、矢が逸(そ)れたのだ。むしろ、常に的を射貫く事ができるブノアの腕前がずば抜けているのであろう。
「ああ‥ ゴルティエ‥! 」
ドゥダが歓喜の声を上げた。
「間に合ったか! 」
そう言うと、ゴルティエは姉と母の元に駆け寄った。
倒れていたエルレヴァに気づいたゴルティエは、姉を抱き起こした。
「姉ちゃん、大丈夫か? 」
薄目を開けたエルレヴァが笑って答える。
「へ‥ へへへ‥ ちょ‥ ちょっと、無茶しすぎたみたい‥‥ 」
「待って! 動かしちゃダメ! 」
最後尾にいたシュザンヌが大声を上げた。
「ちょっと、どいて! 」
グラン・レイ達を押しのけてエルレヴァのもとへ走り寄る。
彼女はゴルティエからエルレヴァを奪うと、全身をさすりはじめた。
「すごく、体温が下がっている。 あなた、妊娠してるわよね? 」
「は‥ はい‥ 」
シュザンヌがゴルティエ達に怒鳴った。
「すぐに屋敷に行って、毛布をありったけ持って来て! 」
「わ‥ わっかりました! 」
ゴルティエ、グラン・レイ、ブノアが屋敷の中へと走って行った。屋敷は幸いにも一部しか燃えていなかった。
シュザンヌは彼らの後ろ姿を確認しながら、フィリッポにも命じた。
「そっちのアンタ! おじさんは、あたりを警戒して 」
「お‥ おじさん? はじめて言われたよ 」
フィリッポは弓に矢をつがえると、近くに敵がいないか確認しはじめた。
と、男の呻(うめ)き声が聞こえた。
2本の矢で胸を射貫かれた剣の男はまだ息が合ったのだ。
フィリッポは剣の男の傍(かたわ)らにしゃがみ込む。そして、静かな声で尋問(じんもん)を始めた。
「お前らは何者だ? 」
男は口から血の泡を吐きながら笑った。
「ク‥ ククク‥ そ‥ そんな事‥ い‥ 言うとでも思ったのか‥? 」
フィリッポは男の胸に刺さった矢をグイと握った。
「拷問(ごうもん)してでも吐かせるぞ 」
「グググ‥ ガガ‥ ざ‥ 残念だが‥ 俺の命はもう長くない。 い‥ 痛みもそう感じないようだ‥‥ 」
「クソッ! 」
「そ‥ それに‥ お前がそんな事を知る必要はない‥ お前の命だってそう長くはないのだからな‥ 今日1日で‥ 邪魔な物はすべて排除した。 だ‥ だから‥ 明日の夜明けには、総攻撃が仕掛けられる‥ 」
「ナ‥ ナニィ? 」
「お前達は皆殺しにされるんだよ‥ クク‥ クククク‥‥ 」
男はもう一度血を吐くと、笑いながら死んでいった。
ほどなくしてゴルティエ達が戻ってきた。彼らはそれぞれが毛布を4枚ずつ持っていた。
「毛布はそこに置いて。 女性は着ている物を全部脱ぐ 」
シュザンヌの指示にその場の一同が驚いた。
「え!? 」
シュザンヌはさらに命じた。
「女性が着替えるのよ。 男達は後ろを向く! 」
「は‥ はい! 」
エルレヴァの着替えはシュザンヌが手伝った。
女達はビショビショの衣服を脱ぎ、毛布を体に巻き付ると、着けていたベルトと近くにあった紐(ひも)でそれを縛った。さらに、もう一枚の毛布を頭から被(かぶ)る。それでも、3人はまだ震えが止まらない。
シュザンヌがゴルティエに命じる。
「そこの棒を二本持って来て 」
作業場がある裏庭には、なめし皮を干すための物干し台がいくつも設置されている。そこには6ピエ(約1.8メートル)ほどの棒が何十本も掛けてあるのだ。
ゴルティエはその棒を二本持ってきた。
「ちょっと、アンタ‥ 手を貸して 」
シュザンヌはグラン・レイに手伝わせる。
彼女は、広げた毛布の左端から3分の1ほどのあたりに棒を置くと、毛布の左端を2人で摘(つ)まんで内側へと畳み込んだ。その左端の上にもう1本の棒を乗せ、今度は毛布の右端を内側に畳み込む。すると、元の毛布の3分の1ほどの幅になった簡易の担架(たんか)が完成した。
フィリッポは戦場で担架という物を見た事はあったが、それがこのように簡単にできるとは知らなかった。
「この上に妊婦を乗せて。 そっとだよ! 」
シュザンヌの指示に、グラン・レイはエルレヴァの両腋(りょうわき)を抱え、ブノアが足を持った。そして、彼女を静かに担架(たんか)の上に乗せる。
せぇ~~~の―――と、声を掛け合いながら、2人は担架をゆっくりと持ち上げた。
毛布が固定されていないにもかかわらず、担架はエルレヴァを落とす事はなかった。
安心したゴルティエは、ドゥダを抱き上げる。
「いくぜ、母ちゃん 」
「あいよ♡ 」
フィリッポもサミーラに肩を貸した。
シュザンヌがみんなに声を掛ける。
「それじゃあ、お城に戻るわよ 」
一行は闇にまぎれて、足早に外城壁へと戻っていった。