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1018年 デンマーク・ロスキレ宮殿
兄ハーラル2世逝去(せいきょ)の報を受けて、イングランド王クヌート1世はすぐに軍船でデンマークへと向かった。
だが、クヌート王がロスキレ宮殿に到着したのは、兄の死から1ヶ月近くが過ぎた頃であった。
彼は兄の家臣らから、その今際(いまわ)の際(きわ)の様子を聞き出した。
そして、いまだにデンマークに残っていたゴドウィンを呼び出すと、彼に激しく詰め寄ったのである。
「貴様か? 貴様が兄上を殺したのか? 兄上の最後は、エドマンド剛勇王と同じ症状だ! 貴様が兄上にあの毒を飲ませたのだろう? 」
だが、ゴドウィンは悪びれる様子もなく、すんなりと白状した。
「はい、さようでございます。 あの時と同じ毒をもちいました 」
その言葉にクヌート王の怒りは頂点に達した。
「貴様‥ 許さんぞ! 兄上に手出しするとは―――絶対に許さん! 」
クヌートは腰の剣を抜こうと、その柄(つか)を握り締(し)めた。
ゴドウィンは、そんな王の手を静かに押しとどめる。
「しかし、これでアナタ様はデンマークの王となられるのですぞ! 」
「―――え!? 」
瞬間、クヌートの動きが止まった。
「わたくしは王様のため‥‥ ハーラル国王陛下に身まかっていただいたのです。 それに何かご不満でも? 」
「な‥ 何を申すか! わたしは、そこまでして――― 」
ゴドウィンは薄ら笑いを浮かべてクヌートを見据(みす)えた。
「何です? 『わたしは、そこまでしてデンマーク王になりたいとは思っていなかった』とでも? ―――ならば、どうぞ王位はどなたかにお譲(ゆず)りください。 そして、わたくしを殺せばいい 」
「‥‥い‥ いや‥ 譲(ゆず)るって‥‥‥ 」
「もし、あなた様が‥ わたくしを殺した上で、デンマークの王位もお継ぎになるというのならば‥ 誰もが、あなた様はデンマーク国王となるために、わたくしを使ってハーラル王を殺したと噂するでしょう。 あなた様は『兄殺し』となられるのです。 それでもよろしいのでしょうか? 」
「き‥ 貴様‥ このわたしを脅(おど)すつもりか‥‥ 」
だが、ゴドウィンは丁寧(ていねい)な口調ながら、王に命令した。
「ともかく‥ 毒薬の事など気づかなかった事にして―――アナタ様は、おとなしくデンマーク国王になられればよいのです。 それが、陛下にとって最善の道なのですから♡ 」
ゴドウィンは、クヌートが握った剣を抜かなかった事で、彼がすでに己(おの)が手中に落ちたと確信していた。
どいつもこいつも、あさましい奴らばかりだ―――ゴドウィンは腹の中でせせら笑っていた。
クヌートもエマも、その欲が災(わざわ)いして、この後ゴドウィンの言いなりとなっていくのである。
こうして、イングランド王クヌートはデンマーク王国の国王となったのだった。
だが、どこの国でも国王が逝去(せいきょ)すると必ず各地で反乱が起こる。
クヌートは、デンマーク王の戴冠(たいかん)をした後、その鎮圧(ちんあつ)をしなければならなかった。
しかし、長い戦争の末、やっと奪(うば)い取ったイングランドの治安回復と政治機構の確立も、彼にとっては急務であった。
二つの国が抱える問題は、クヌート一人ではとても処理できる量ではなかった。クヌートには人材が必要だったのだ。
デンマークの掌握(しょうあく)にはクヌート自(みずか)らも出陣したが、くわえて最も信頼できる友・ウルフ伯に任せようと考えていた。
彼はクヌートの従兄弟違(いとこちがい=いとこの子)であり、異母妹エストリドの夫でもあった。家柄はよく、頭脳明晰(めいせき)で、腕も立つ。
そしてもう一人、ゴドウィンを治安部隊の隊長とした。彼は戦士の経験がなかったが、本人がどうしても戦地に赴(おもむ)きたいと申し出たのだ。
ウルフ伯は反乱を起こした領主を包囲し、談判によって説き伏せていった。元は同じデンマーク・スキョル家に仕えてきた家臣同士である。反乱とは名ばかりで、それは条件闘争のようなものに過ぎない。新しい王に自分達の存在を誇示(こじ)しているだけなのだ。互いに話し合えば解り合えるとウルフは信じ、彼らを丁寧(ていねい)に説得していった。
一方、ゴドウィンは交渉(こうしょう)など一切しない。大軍と共に現地へ乗り込み、たとえ相手が降伏しようとも全滅させた。敵兵のみならず、動く物は犬でも猫でも全て殺した。村や町に火を放ち、捕まえた者は女子供であろうと四肢(しし)をバラバラにし、それを道の脇に晒(さら)したのだ。ゴドウィンが通りすぎた街道の脇には、人体で作られた壁(かべ)が延々(えんえん)と築かれるほどであった。
デンマークの人々は、そんなゴドウィンを大いに恐れた。反乱領主は次々と白旗を掲げ、全財産を差し出した。その結果、ゴドウィンはウルフ伯よりもはるかに早く、反乱の鎮圧(ちんあつ)を終える事ができたのだった。
特に、ポメラニア(=ポーランド北西部からドイツ北東部)に住むヴェンド人への夜間襲撃はクヌートからも高く評価された。彼(か)の地は、クヌートの母・グンヒルダの故郷だったからである。
デンマークの平定には1年以上の歳月(さいげつ)が掛かり、クヌートがイングランドに帰国したのは1020年となった。
その年、クヌートは、かねてよりエマから乞(こ)い願われていたデンマークの王位継承権をハーディクヌーズ王子に与えた。そして、王子の後見人としてウルフ伯を任じ、デンマークの摂政(せっしょう)としたのだ。
一方、ゴドウィンもこの戦争で十分な成果を出したと確信していた。
しかし、極悪非道のバイキングであったクヌートの家臣団でさえも、ゴドウィンの残忍すぎる行動には、評価が分かれるところとなった。
けっきょく、クヌート王とエマ王妃の二人がゴドウィンを強く支持したため、彼は28歳にして東ウェセックスの伯爵(アール)に任(にん)ぜられる事となったのだ。
彼はついに貴族となったのである。しかも、その領地は伝統あるウェセックス領であった。
ゴドウィンは残忍であるにもかかわらず、上の者に取り入るのがうまかった。お世辞(せじ)を言い、道化(どうけ)のようにおどけ、高価な贈り物をした。どんなに嘲笑(あざわら)われ、罵(ののし)られようとも、それを逆手に取り、相手をさらに笑わせようと努(つと)めた。
ただそれは、ロンドンに出て来た時、酒場の金持ち達に媚(こび)を売ったのと同じ気持ちであった。たとえ彼らがどんなに勇猛果敢(ゆうもうかかん)な戦士であろうとも、彼らの命は自分が握っているという自負心があったのだ。
ゴドウィンは国王を二人も暗殺した人物である。たかが、バイキング上がりの貴族を殺すくらい、わけもないと考えていた。
いざとなったら、毎日行(おこな)われる酒宴の酒樽(さかだる)にタップリと毒を入れてやればいい。それで、彼ら全員はあの世にいってしまうのだ。そこにはヴァルハラ(北欧伝説に出てくる、死んだ戦士達が集まる館の事)などない。
しかし、そんな彼の腹の内など知らない宮廷の重鎮(じゅうちん)達は、やがてゴドウィンに魅了されていくのである。彼はいつの間にか、イングランド宮廷に欠かせない人物となっていた。
だが、彼らは或る日ふと気づくだろう。いつのまにか、ゴドウィンと自分達の立場が入れ替わっている事に―――。馬鹿にしていたゴドウィンから命令を受け、彼のくだらない冗談にも無理して笑わなければならなくなっているのだ。
ただ一人、そんなゴドウィンをずっと毛嫌(けぎら)う人物がいた―――ウルフ伯(アール)である。彼はゴドウィンを『血も涙もない残忍な人物』、『成り上がりのエセ貴族』として、一切認めなかったのだ。
ゴドウィンもそんなウルフの嫌悪(けんお)に気づいていたが、それゆえに彼にさらに媚(こび)を売り続けた。なんとか好かれようとしたのだ。
ゴドウィンは、とうとうウルフの妹・ガイサにまで接近し、深い関係となる。そして彼女に結婚を申し込むのだ。
ウルフ伯(アール)は、大して美人でもないガイサを嫁にしたいというゴドウィンに怒りさえ覚(おぼ)えた。彼の狙いが、自分達兄妹の家柄であると判っていたからである。
それゆえ、ゴドウィンから懇願(こんがん)されたクヌート王が、婚姻(こんいん)の仲を取り持とうとしても、ウルフはけっして首を縦には振らなかった。
しかし、何日も何日もガイサに泣いて頼まれると、ウルフはついに、二人の結婚を許してしまう。それは、彼が心の底から妹を愛していたからである。
1021年、31歳のゴドウィンは23歳のガイサと結婚したのだった。
この結婚により、ゴドウィン伯(アール)はウルフ伯(アール)と義理の兄弟となったばかりでなく、クヌート王とも姻戚(いんせき)関係を結ぶことになる。
エマは、自分の息子が本家デンマーク王国の跡取りとなった事をたいそう喜んでいた。
しかし、或る日ゴドウィンが彼女に囁(ささや)きかけた。
「何をそんなにお喜びになっているのです? 事態はより悪化したというのに――― 」
「え!? 」
キョトンとするエマに、ゴドウィンはさらに続けた。
「よくお考えください。 もし、クヌート王がお亡くなりになられたとして‥ その時、ハーディクヌーズ王子は本当にデンマーク王になれるのでしょうか? わたしがデンマーク王室の重臣なら、ウルフ伯(アール)を王に選びますが‥‥ 」
その言葉にエマは混乱した。
「だ‥ だって‥ 王様は、ハーディクヌーズをデンマークの国王にすると―――そうお約束になられたではないか‥ 」
ゴドウィンは呆れたように鼻で笑った。
「それは、ウルフ伯(アール)が摂政(せっしょう)になられる前のお話ですよ。 まさか、あの方がデンマーク王国の実権を握られるとは、わたくしとて思いもよりませんでした。 王様も、後見人を王妃様か、せめて私になさればよかったのに‥‥ 」
「じゃ‥ じゃあ、お義兄様(にいさま)を‥ ハーラル王を殺したのは意味がなかったと‥? 」
「まあ、そういうワケではありませんが‥ ハーディクヌーズ殿下が王位を継承できる可能性は‥ そうですねェ―――半分っといったところではないでしょうか‥ 」
「そ‥ そんな‥‥ 」
エマはますます顔を曇(くも)らせ、不安そうになった。
しばしの静寂(せいじゃく)があたりを包む。
やがて、ゴドウィンは薄笑いを浮かべて、エマを覗(のぞ)き込んだ。
「で‥ どうなさいますか、ウルフ伯(アール)を? 」
エマは恐る恐る尋(たず)ねた。
「こ‥ 殺すの‥? 」
すでに義兄ハーラル2世暗殺の片棒を担がされていた彼女は、『家族殺し』という禁忌(タブー)に対して、ハードルがかなり下(さ)がっていた。
オドオドとしたエマから視線を外したゴドウィンは、ちょっと考え込むような素振りをした。
「う~~~む‥ そうなさる事をお奨(すす)めいたしますが‥ しかし、もうしばらくは様子を見てもよいのではないでしょうか。 ハーディクヌーズ殿下はまだ幼いですし‥ 時間はたっぷりあります。 あせる必要はありませんよ」
彼はふたたび不気味な笑顔をエマに向けると、
「それにウルフ伯(アール)のような真面目な方は、かえってそれが失敗の原因にもなるものです。 そして、少しでもあの方がつまずいたならば、その時がチャンスです。 容赦(ようしゃ)なく一気に叩き潰しましょう 」
「は‥ はい‥ 」
真顔に戻ったゴドウィンは、エマをさらに戒(いまし)めた。
「しかし我々が、緊迫(きんぱく)した状況の中にいる事は決してお忘れなきように! よろしいですね 」
エマはそれにコクリと頷(うなず)く。
その時になってやっと、両者の立場がずっと以前から逆転していた事にエマは気づくのであった。
ゴドウィンはウルフ伯(アール)の事がはじめから大嫌いだった。ウルフが彼を嫌っていた以上に、彼の方がウルフを嫌っていたのである。
家柄も地位も財産も、容姿から剣の腕前、さらには美しい妻まで―――彼はすべてを持っていた。その上、性格も優しく真面目である。純粋な男なのだ。
そんな非の打ち所のない人物を、ゴドウィンが好きになれようはずはなかった。
さらに、ウルフ伯(アール)が将来必ずや自分の行く手に立ちはだかり、彼のやろうとする事を邪魔するに違いないと、ゴドウィンは確信していた。
だからこそ、ゴドウィンはかなり早い段階から、ウルフを殺す事を決めていたのだ。
そしてどうせ殺すのならば、彼が死にゆく時、その瞳に最大の『悔しさ』を浮かべさせてやろうと思っていた。ウルフが『悲しみ』と『怒り』の頂点にいる中、命の灯火(ともしび)を吹き消してやろうと計画していたのだ。
『悔しさ』は、信用していた人物から裏切られた時に一番強く現れるが、憎んだり、蔑(さげす)んだりしていた人物や、自分よりも立場が下であると思っていた人物から裏切られた時にもはっきりと出現する。
だから、ゴドウィンはウルフ伯に懸命に媚(こび)を売り、頭を下げ、けっして逆らわなかったのだ。たいして好きでもないウルフの妹と結婚したのもそのためだった。
そうやって、ウルフが自分を見下し、憎むように仕向けたのだ。
だが、いつの日か、彼を必ず殺してやる。
その時、死にゆくウルフの耳元で、こう囁(ささや)いてやろうと考えていた。
『お前の妻や子供にも死ぬような思いをさせてやる♡ 』―――と。
その言葉に、ウルフは悲憤(ひふん)のあまり、血の涙を流すに違いない。
このように素晴らしく、楽しいショーがあるだろうか。それを思うとゴドウィンは日々ワクワクするのであった。
1025年、クヌート王からウェセックス全土を領地として与えられたゴドウィンは、イングランド王国最大の伯爵(アール)にまで出世する。
そして、このゴドウィン伯(アール)こそが、のちに藤原頼純やロベール伯(コント)、その子ギヨームの前に立ちふさがり、彼らを苦しめ、そしてイングランドの王位継承を大混乱させる首謀者(しゅぼうしゃ)となるのであった。