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 1026年 ファレーズ城・中庭(1)


 『領主の館(メヌア)』内の礼拝堂(シャペラ)は、ローマ教会が所有・管理する『教会(エグリーズ)』ではない。
 騎士(シュバリエ)の叙任や結婚式、聖誕祭など、領主の個人的な祭事のタメに、作られたモノである。
 ファレーズの『教会』は、それとは別に街の中心に建てられていた。
 そこはルーアンの大司教から任命されたエイマール司教が鎮座(ちんざ)し、教区の信者達が幸福であるようにと、日々祈祷(きとう)が行われている場所である。
日曜日ともなれば、街中の人々が祈りと懺悔(ざんげ)に集まる公共の場でもあった。毎日、時を告げる鐘が打ち鳴らされるのもこの『教会』である。
 一方、『館』の礼拝堂で祭事が行われる際には、『教会』のエイマール司教が赴(おもむ)いてそれを執(と)り行った。
 そして、トマは助祭(じょさい)として、礼拝堂の管理を任されているのである。

 その礼拝堂(シャペラ)と、ロベールが住む母屋との間には、広々とした中庭があった。
 中庭は、出陣の際に騎士(シュバリエ)や兵士達が整列する場所である。また、普段は彼らの武術訓練も行われていた。
 そんな中庭の真ん中に、四角い木箱がポツリと置かれている。
 2ピエ(1ピエ=1フィート=約30センチ。2ピエは約60センチ)四方のその箱の中には、ロベール伯爵を本日襲撃した実行犯『山犬のジャン』が閉じ込められていた。

 伯爵様を亡き者にしようとした『山犬のジャン』は、その罪の重さゆえ、間違いなく死刑となる。
 その執行はたいていの場合、領民への見せしめと娯楽もかねて、人々が集まりやすいファレーズ教会前の広場で執り行われる事になっていた。

 だが、死刑執行の前に、彼には今回の襲撃の黒幕を白状してもらわなければならない。
 伯爵とは縁もゆかりもない『山犬のジャン』が、突如徒党(ととう)を組んで伯爵の殺害に及(およ)ぶとは考えられなかったからである。『ジャン』の手下達も、何者からかの依頼を匂わせるような言葉を吐いていた。
 その取り調べを行う拷問(ごうもん)室は、兵舎の地下にあり、現在その準備が着々と進められていた。明日の朝一番からジャンに対する拷問は始まり、その後は夜も昼も関係なく、地下からずっと彼の悲鳴と絶叫、泣き声が中庭に響き続けるのだ。

 ジャンが入れられた木箱の傍(かたわ)らには、二名の兵士が警備についていた。
 三十代後半と二十歳前後と思われる二人の兵士は、腰に長剣(エペ)をぶら下げ、さらに槍(ラーンス)まで持っていた。

 中庭にはたくさんの松明(たいまつ)が灯(とも)され、木箱を照らし出していた。
 『領主の館(メヌア)』は周囲を高い板塀で囲まれており、常に十数人の兵士が巡回していた。そこから、ジャンが逃げ出す事など絶対に不可能なはずである。
 それでも、ロレンツォは頼純の進言にしたがって、木箱の横に必ず二名の警備兵をつかせ、片時もそのそばから離れないようにと厳重に指示をしていた。

 そんな箱の中から、ジャンの弱々しい声が聞こえる。
「み‥ みず‥ 」
 箱の上部には何本もの太い鉄棒が渡され、『檻(おり)』となっていた。ジャンはその中に身を小さく折り畳(たたみ)み、無理矢理押し込められている。
「お‥ お願いです‥ 水を‥ 水をください――― 」

 『檻』を警備する兵士が交代してから3時間、ジャンはずっと懇願(こんがん)し続けていた。おそらく彼らの前に担当した兵士達にも同じ事を言い続けていたと思われた。
 そのあまりのしつこさに、ずっと無視をしていた警備兵もとうとう我慢できなくなり、箱の横をドンッと蹴りつけてしまった。
「黙れ! いつまで物乞(ものご)いを続けるつもりだ 」
 ジャンの両手は、前向きにして手首をきつく革紐(かわひも)で縛られていた。その両手の指を深く組み合わせると、ジャンは必死になって兵士に頼み込んだ。
「どうか‥ どうか、そんな事をおっしゃらネーで‥ 水を‥ 水を飲ませてくだせえよ。 ちょっとでいいんです‥‥ 」
「ふざけるな! 貴様は俺達の仲間を8人も殺したんだぞ! 」
 警備の兵は、ジャンから何を言われようとも、かならず無視するようにと命令されていた。しかし、怒りを抑(おさ)えきれなくなった若い兵士が、憎しみを込めて檻(おり)の中へ怒鳴りつけたのだ。
「その中の一人、ピエールは俺の従兄(いとこ)だ。 小さな頃から俺をかわいがってくれた、優しい兄ちゃんだった。 こないだ子供が生まれたばかりだったんだぞ 」
 若い兵士はうっすらと涙を浮かべ、怒りに震(ふる)えている。彼がこれ以上興奮しないように、年嵩(としかさ)の兵士が先んじてジャンに声を掛けた。
「お前は領主様のお命を狙ったんだ。 そんな奴に飲ませる水はない。 黙って、苦しんでおけ 」
 しかし、ずっと無視され続けていたジャンは、兵士がやっと反応してくれた事に安堵(あんど)していた。そして、わざとらしい苦悶(くもん)の声を上げてみせたのだった。
「旦那ァ‥ そんなコト言わネーでさァ‥ お願ェだよ‥、水をくだせーよ‥ 少しだけでいいんだ。 もう、喉(のど)が渇(かわ)いて渇いて、死にそうなんだからよォォ‥ 」
 年嵩(としかさ)の兵士は意地悪な笑顔で箱の中のジャンを覗き込む。
「なァに‥ 水はすぐに飲めるって。 朝になれば、貴様への取り調べが始まるからな。 そうすれば、水の中に頭を押しつけられ、死ぬほど飲ませてもらえるぞ♡ 」
「ア‥ ウッ‥ 」
 ジャンは恐怖に言葉を詰まらせた。

 その時、真っ暗な闇の中から突如トマが現れた。
「やあ‥ お務め、ごくろうさまです 」
 一瞬、ビクッとした兵士達であったが、助祭のトマである事を確認すると恭(うやうや)しく挨拶を返した。
「こ‥ これは、助祭様 」
 トマは、歌声や笑い声が漏れてくるロベールの館を振り返ると、二人に話し掛けてきた。
「今宵(こよい)は、伯爵様のご無事を祝う宴(うたげ)とロレンツォ殿の歓迎会で、お館はいつにも増してにぎやかですな。 このような日に、いくらお役目とはいえ、罪人の見張りはちとつろうございましょう 」
 いつものオドオドとしたトマとは違う、余裕あるその態度に二人の兵士達はやや戸惑っている。
「して‥ 助祭殿はこのような夜更(よふ)けにいかがなさいました? 」
 トマは胸に抱いた聖書を少し掲げると、穏やかな微笑(えみ)でそれに答える。
「なに‥ 今夜は、この男がこれまでの罪を告解(こくかい)する最後の機会かと思いましてね―――それで、罪人(つみびと)が神に許しを請(こ)うお手伝いをしようかと参(さん)じたしだいでございます 」
 トマがいつも持つ聖書は、他のすべての書物と同様に、羊皮紙に一枚一枚丁寧に手書きされたもので、この一冊だけでも『見渡す限りの農場』が買えるほどに高価なものであった。

「お優しいお心遣(づか)いですが‥ 残念ながら、我々は誰もここに近づけるなと厳命されておりまして‥ たとえトマ殿であろうとも、お通しするワケにはまいりません 」
 年嵩(としかさ)の兵士は愛想笑いを浮かべながら、トマの申し出をやんわりと断った。
 頭上で交わされる会話を聞きながら、檻(おり)の中のジャンは暗闇に浮かぶ、トマの顔に目がとまった。
「ああッ! 」
 ジャンは大きく息を呑(の)むと、そのまま固まった。

「しかしながら‥ いくら罪人であろうとも、死ぬ間際に告解(こくかい)をするのは神から与えられた権利ですぞ。 邪魔をすれば、それはすなわち神を冒涜(ぼうとく)するも同じ! 」
 トマは、少々きつい態度で兵士に詰め寄った。
「か‥ 神を冒涜(ぼうとく)―――? 」
 若い兵士は一瞬おののいた。神に背く事は絶対に許されないからである。
 それでも年嵩(としかさ)の兵士は譲らなかった。
「助祭殿‥ 懺悔(ざんげ)ならば、取り調べが終わった後―――処刑の前に行えばよろしいのではないですか? 」
 トマは小馬鹿にしたかのように鼻で笑った。
「この男は伯爵様を殺そうとしたのですぞ。 ならば、その拷問も半端なモノではありますまい。 全身の肉が裂けるまで鞭(むち)で打たれ、爪を剥(は)がされ、歯まで抜かれた後に、口がきけるとでもお思いですか。 そのような状態で、どうやって告解(こくかい)をするのです 」
「そ‥ それは‥ 」
「それに、この男はそうとうな悪党‥ その懺悔(ざんげ)にも相当時間が掛るかと思われます。 今やらねば間に合いませんぞ 」
 そう語るトマの声には強い意志が込められていた。それは普段はけっして感じられないモノだった。
明らかにいつもと違うトマに、若い兵士は自分の目が信じられなくなった。そして、訝しげに眉を顰(しか)めながら尋(たず)ねたのだった。
「ア‥ アナタは本当に助祭のトマ殿ですか? 顔付きは同じようだが、私には別人に見えるのですが‥‥ 」
「‥‥‥ 」
 その言葉に、ふいに無表情になったトマは、しばしその目を覗(のぞ)き込んだ。
 激しい睨み合いではないが、トマと若い兵士との間に緊張が走る。

 年嵩(としかさ)の兵士も、トマが別人のように感じられたが、やはりトマのようでもあった。どうなっているのかよく判らないまま、ともかく『神に仕える者』と対立するのはまずいと判断し、「まあまあ‥ 」と二人の間に割って入った。
 トマから視線をはずした若い兵士は、憮然(ぶぜん)とした表情ながらも
「ともかく‥ 我々は命令に背(そむ)く事ができないのです。 どうか、兵士長殿のご許可をおとりくださいませ 」
 と丁重(ていちょう)に頼み込んだ。
 すると、突如トマの顔が笑顔となった。だがそれは、笑いの仮面を着けたかのような不気味さに満ちていた。
「なるほど。 いや、アナタのおっしゃる通りだ。 しかしながら、この悪党のために、これから兵士長殿を探すのも面倒です。 本日は退散する事といたしましょう」
 トマは礼拝堂(シャペラ)の方へと振り返りながら、
「私はただ‥ 神への告解(こくかい)をした者は、もはや隠し立てをする必要がなくなるタメ、取り調べでも神妙に白状するのではないかと―――そう思ったまでの事。 どうか、ご容赦(ようしゃ)ください 」
と、言い訳とも謝罪ともつかぬ言葉を口にした。

「ちょ‥ ちょっとお待ちください‥ 」
 礼拝堂へと戻りかけたトマの背に、声を掛けたのは年嵩(としかさ)の兵士であった。
「助祭殿‥ どうぞ、告解(こくかい)をなさってください。 こやつの懺悔(ざんげ)が終わるまで、我々は少し離れたところにおりますから‥ 」
 若い兵士は、慌(あわ)てて年嵩(としかさ)の兵士を振り返り、憤然(ふんぜん)と抗議した。
「バ‥ バカな! そんなコトをしたら、兵士長殿からどんなおしかりを受けるやら判りませぬぞ! 」
 しかし、年嵩(としかさ)の兵士は穏やかな声で若い兵士をなだめる。
「まあまあ‥ そう固い事を言うな。 トマ殿は、教会の助祭であられるのだぞ。 『神』にお仕えなさってらっしゃる方だ。 不審者ではない。 それに我々だって、声の届かない距離ながらも、ジャンに不審な動きがないか見張っておるのだ。 何も起きやしないって。 安心しろ 」
 理路整然と語りながらも、年嵩(としかさ)の兵士の目は虚(うつろ)ろで、何も見ていなかった。

 トマは、さっさと場所を譲る年嵩(としかさ)の兵士とまだ納得ができない若い兵士を交互に見ながら胸元で十字を切った。
「ありがとうございます。 どうか、お二人に神のご加護があらん事を♡ 」
 その顔に浮かんだ薄笑いは、見る者すべてに悪寒(おかん)を感じさせた。

     ×  ×  ×  ×  ×

 ジャンは、前向きに縛られた両手で木製の椀を掴むと、中の水を一気に飲み干していく。
 トマはそんなジャンの姿を、檻(おり)の上からニコニコとした笑顔で見下ろしていた。
「ご安心ください。 警備の者達に我々の声は聞こえませんから 」
 箱に体を押し込められたジャンは、水を飲み終えると窮屈そうに一息つく。
「ふう! いや~~~あ‥ まさか、オメーが坊さんだとはなァ‥ 」
 トマを見上げたジャンに、先ほどまでの弱々しさ、惨(みじ)めさは微塵(みじん)もない。完全に悪党の顔に戻っていた。それは、喉(のど)が潤(うるお)い、生気が戻ったからダケでなく、確実に生き残れるコトを確信しているからであった。
「それにつけても‥ まったく、いいトコに現れてくれたよ。 じゃあ、早速だが‥ この俺をここから逃がしてもらおうか。 な♡ 」
 冷たい笑顔を張り付けたトマは胸に手を当てると、
「ククククク‥ ワタシにそんなコトはできませんよ! 」
とジャンの命令を拒絶した。
 ジャンは、犯罪者特有の攻撃的な笑(え)みでジロアを睨みつける。
「おいおいおいおい‥ テメー、そんなコト言ってていいのかよ? 大金払って、あの伯爵を──ロベールを殺せって、この俺様に頼み込んだのはオメーなんだゼ 」
「…‥ 」
 ジャンの言葉に、トマの顔からすべての感情が消える。そのガラス玉のような目には、見下ろすジャンがただの物体にしか映ってないかのようであった。