第104話 1027年 ファレーズの街(2)


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 1027年 ファレーズの街(2)

 昼を過ぎる頃には、『領主の館(メヌア)』も大騒ぎになっていた。
「慌(あわ)てるでない! 状況を把握(はあく)し、報告せよ! 」
 ロベール伯爵はその中心にあって、家臣達に檄(げき)を飛ばしていた。
 だが、疾病(しっぺい)対策本部となった広間では、彼の声も聞こえぬほどに、人々が叫び、怒鳴り、右往左往していた。
 そんな混乱の中、親衛隊のエルルインとダヴィドがロベールへ現状報告をする。
「幼子(おさなご)から始まったこの病(やまい)‥ すでに少年や女性、さらには老人にまで伝染しております。 みな、死んではおらぬのですが、深い眠りに落ち、けっして目覚める事がありません! 」
「不思議な事に‥ 赤ん坊でこの眠り病に掛かった者は誰もいないのです。 全員、元気にしております 」
 そこへ、兵士長レオンが慌てた様子で駆け込んできた。
「も‥ 申し上げます! つ‥ ついに、兵士4人が倒れました。 いくら揺(ゆ)さぶろうとも、まったく反応がありません 」
 ロベールは愕然(がくぜん)とした。
「―――とうとう、成人男性にも病(やまい)が及(およ)びましたか? ああ‥ なんという事だ‥‥! 」
 あまりにも病魔の拡がりは早かった。
 ガックリと肩を落としたロベールに、傍(かたわ)らの頼純が具申(ぐしん)した。
「これも、あのトマ助祭の仕業ではないでしょうか! すぐに、あの男を捕縛(ほばく)いたしましょう! 捕縛して、トマに原因を自白させ、治療方法を聞き出すんです 」
 だが、ロベールは苛立(いらだ)った声で返した。
「それこそ何の証拠もないじゃないですか! これが、傭兵団(ようへいだん)事件の首謀者(しゅぼうしゃ)による、新たなる攻撃ではないと言い切れますか? それ以外の犯人という可能性だって考えられます。 偏(かたよ)った推論で事を進めると、取り返しのつかない事態に陥(おちい)りますよ! 」
「しかし、これは緊急事態です。 たしかに‥ 今は、みんな眠っているだけだし、まだ死んだ者は1人もいません。 でも‥ もし、眠ったまま、死んでしまう病気だったらどうすんです? 明日、明後日、大量の死者が出るかもしれないんですよ 」
「むむむむ‥ た‥ 確かに! その可能性も十分に考えられますね――― 」
 追い詰められたロベール伯は、しばし床の一点を睨(にら)みつけた。

 もし、助祭を短時間で自白させようとするのなら、かなり厳しい拷問(ごうもん)を掛けなければならない。
 だが、証拠もなしに、そのような拷問を行えば、必ずや教会ともめる事になるだろう。
 だからといって、この事態を放置するわけにもいかない。
 唯一の手掛かりは、助祭トマしかないのだ。

 ロベールは決意した。
「わかりました! トマ助祭を逮捕しましょう 」
「はッ! 」
「ただ、その前に‥ 教会の許可を―――いや、エイマール司教に事情を話すだけでけっこうです。 それだけお伝えくだされば、あとはわたくしが何とかいたします 」
 悪くない折衷案(せっちゅうあん)であった。 現状の伯爵の立場では最善の策といえよう。
 頼純はその意見に従う事にした。
「判りました。 では、わたくしが教会までひとっ走りして、話しを通してきます。 そして、その足で直接トマを逮捕しに向かいましょう。 それまで奴は、『カラス団(コルブー)』に見張らせておきますので‥! 」
「なるほど‥ 」
 頼純はさらに詳細(しょうさい)な指示を出した。
「あと‥ リオン殿は、医者達を通じて引き続き原因究明にあたってください。 すべての個人治療をやめさせ、治療方法探させるんです。 それから、ティボー殿‥ アナタはエレーヌの森に行き、シュザンヌさんを呼んできてください 」
「了解しました! 」
 エルルインが頼純に尋(たず)ねた。
「して、我ら親衛隊は何を?  」
「お前らは全員で伯爵の警護にあたれ。 怪しい者は絶対に近づけるな! 俺もすぐにお前らと合流するから! 」
「え!? でも、トマの捕縛は?  」
「それは、俺と『カラス団(コルブー)』だけで十分だ! 」
 頼純は、大きく息を吸うと、意を決して伝えた。
「俺は、今一番危険なのは、伯爵であるような気がしてならないんだ 」

     ×  ×  ×  ×  ×

「ああ‥ 悪魔(サトン)様、悪魔(サトン)様‥ アナタ様はなにゆえに、これほどまでアナタ様をご信奉(しんぽう)申し上げているわたくしに意地悪をなさるのでしょうか? 悪の限りを尽(つ)くそうとしているこのわたくしに、かような受難をお与えになられるのでしょうか? 」
 礼拝堂(シャペラ)の中で、ジロアは嘆(なげ)き、悲しみ、悔(くや)しがっていた。
 彼は、憎きロベール伯を亡(な)き者にし、愛するエルレヴァを誘拐して、この街から逃げ出す計画を進めていた。
 それは、エルレヴァの出産以前からの目論見(もくろみ)であった。
 だが、彼女が『街の聖女』、『次期伯爵夫人』となってからは、つねに数名の護衛と侍女(じじょ)が同行しており、誘拐どころか彼女に接近する隙(すき)さえまったくなくなったのである。
 さらに、ロベールのそばにはいつも、あの『テュロルドのヨリ』が控(ひか)えている。
 忌々(いまいま)しくも、恐ろしく勘のいいあの男のせいで、彼の完璧な計画はこれまでも幾度となく妨害されてきた。
 このような状況では、エルレヴァの誘拐など出来ようはずもない。
 ところが、そのヨリが7日間もこの街から離れるという。エルレヴァとロベールの近くにいないのだ。
 これを、絶好の機会と言わずして、なんと言おうか。

 トマは、頼純達が出立(しゅったつ)すると、すぐに行動に出た。
 街中のすべての井戸に毒を投げ込んだのだ。
 この毒は人を殺す毒ではない。
 そのような毒だと、当然井戸水を飲むであろうエルレヴァまでをも殺してしまうからだ。
 ただ、眠らせるのだ。何日も、何日も‥‥街中のすべての人達を‥‥。
 井戸に入れられた毒は、1日かけて水の中へと溶け出していく。そして、その水を何度も飲む事で、毒は体に蓄積(ちくせき)されていくのだ。
 まずは、体の小さな鶏(にわとり)、猫、犬に始まり、子供達へ―――やがては、大人達も深い眠りに沈んでいくだろう。
 そして、街は完全に静止する事になる。
 そうなれば、1人として動く者のない『領主の館(メヌア)』で、グッスリと眠る伯爵を安心して殺せる。
 それから、眠りに落ちたエルレヴァと赤ん坊を馬車に乗せ、この街から逃げ出すのだ。
 ファレーズの北東、『グリムボスクの森』の奥深くには、彼だけが知る秘密の洞窟がある。 その洞窟で、エルレヴァとともに隠れ住むつもりだった。
 この甘美(かんび)な計画に、トマは大いに酔いしれるのだった。

 そして3日目、そろそろ毒の効果が現れ始める頃だった。
 ところが、7日間の予定だったテュロルドのヨリ達が、たった3日で戻ってきてしまった。
 今から彼ら6人が井戸水を飲んだとしても、彼らに毒の効果が現れるまで、最低でもさらに2日はかかるだろう。
 その間に、ヨリは何か行動を起こすに違いなかった。この素晴らしい計画をブチ壊すような、何かを―――
 それゆえに、トマは信奉(しんぽう)する悪魔(サトン)に恨み言(うらみごと)をぶつけていたのである。
 とはいえ、動き出した計画に、もはや待ったは掛けられない。
 まだ、全員が眠りに落ちていない中途半端な状況であったとしても、トマはエルレヴァの誘拐を決行するしかなかった。

      ×  ×  ×  ×  ×

 『領主の館(メヌア)』を出た頼純は、エイマール司教がいるファレーズ教会へ真っ直ぐ向かおうとしていた。
 ところが、『勇者様』として超有名人である頼純は、混乱する街の人々から次々と呼び止められ、すがりつかれた。 頼純は、街中の人々から顔を知られていたし、格好も他の者達とは違うので、通りを歩くとひじょうに目立つのだ。
「ヨリ様‥ 女房や子供が死にそうなんだよ。 どうにかしてくれ! 」
「テュロルドのヨリ様‥ 俺達も死んじまうのかい? 」
「テュロルド様‥ 助けてくれェェ‥ 」
 不安だらけの人々に囲まれ、頼純はなかなか前に進めない。
 彼らのほとんどは、青年か壮年(そうねん)の、体が大きな男達ばかりであった。
 力も強い彼ら数人から、着物を掴(つか)まれると、身動きがとれなくなってしまう。
「ちょ‥ ちょっと、待ってくれ! 放してくれ! 事態を解決するためにも、教会に行かなきゃならネーんだ! 通してくれってば! 」
 同行していたゴルティエとラウルに男達を引き離してもらい、人並みをかき分けて、なんとか前に進んだ。
 普段なら歩いてすぐの教会までが、永遠かと思えるほど長い道のりとなってしまった。

 頼純達が、なんとかかんとか教会までたどり着くと、中はシーンと静まり返っている。
「誰かいませんか? エイマール司教―――! 」
 頼純が叫んだ。
 その声に、奥から3人の人影が近づいてきた。
「エイマール司教様ですか? 」
 頼純は声を掛けた。
 キリスト教徒でない頼純は、教会に来る事はなかったし、司教と話した事もほとんどなかったのだ。
「残念ながら‥ エイマール司教様はさきほど病に倒れられました。 お体は祭壇(さいだん)の前に横たえております 」
 そう答えたのは、真ん中の人物だった。彼は20代半ば、司祭らしき法衣(ほうえ)を着用している。 左は、法衣こそ着ているが、まだ年端(としは)も行かぬ少年であった。 右の男は雑用係だろうか、野良着(のらぎ)を着ている。
「ああ‥ 一足遅かったか‥! 」
 頭を抱える頼純に、ゴルティエが尋(たず)ねる。
「どうします? もう教会の意向は無視して、独断でトマを捕縛(ほばく)しましょうか? 」
 頼純は、真ん中の司祭らしき男に質(ただ)した。
「失礼ですが、アナタ様は‥? 」
「わたくしはジュリアン司祭でございます。 こちらは助祭見習いのピエール、そしてこの男は下男のエリクにございます。 エリクは耳が聞こえておりません 」
「他の方々(かたがた)は? もっと、いらっしゃいましたよね? 」
「この教会に残っているのは我々三人だけです。 司祭と助祭は8人ほどおりましたが、他の者はすべて倒れてしまいました 」
「そうですか‥‥ 」
 頼純はしばし考え込んだ。 それから、改めてジュリアンの顔を見詰めた。
「では、エイマール司教様に代わって、アナタ様にご報告申し上げたい。 判断の必要はありません。 お聞きになるだけでけっこうです 」
「は‥ はい‥ 」
「じつは‥ 一昨日、我々はリジュー村のサン・マリクレール修道院に赴(おもむ)き、ある情報を入手したのです。 その情報とは――― 」
 頼純がそこまで話した時、ドサリと音がした。ジュリアンが床に崩れ落ちた音だった。
 彼もまた、眠り病に掛かってしまったようである。
 残った2人―――10歳ほどの見習いと耳の聞こえぬ下男では、教会に話を通した事にはならないだろう。
 こうなっては、ロベール伯爵も致(いた)し方ないと了承(りょうしょう)してくれるはず。
 頼純は、教会の意向を無視して、トマを捕縛する事にした。

     ×  ×  ×  ×  ×

 西の丘に日が沈み、『領主の館(メヌア)』の周囲は漆黒(しっこく)に包まれていった。
 城内のかがり火に明かりを灯(とも)す者はなく、敷地内は闇が支配していた。
「あれから、礼拝堂(シャペラ)にこもって‥ まったく動きがないですね 」
「ウ‥ ウン‥‥ 」
 『領主の館(メヌア)』の中庭、礼拝堂(シャペラ)の扉を左側から見張っていたのは、ブチ・レイとブノアであった。
 礼拝堂(シャペラ)からは、わずかな光が漏(も)れている。祭壇(さいだん)のろうそくが灯(とも)っているのだろう。
 『カラス団(コルブー)』は、マルクとリュカが扉右側から、ジルとルネは裏口を見張っている。頼純からの命令があれば、すぐに礼拝堂内に踏み込み、トマを捕縛する準備が整っていた。

 彼らは元々、伯爵の暗殺犯を逮捕すべく、雇われた探索方(たんさくがた)であった。
 そして、この10ヶ月間、厳しい訓練にも堪(た)え、捜査の腕も上がっていた。
 大丈夫、俺達ならできる―――そう、自分らに言い聞かせていた。

 教会の鐘が鳴らないので時刻は判らなかったが、張り込んですでにずいぶんと経つ。
 彼らは、頼純の到着を今や遅しと待ちかねていたのだ。
「もしかしたら、トマ助祭も中で倒れてるんじゃないでしょうか? となると、奴は犯人じゃないって事になりますけどね 」
「‥‥‥ 」
「いやいや‥ ヨリ様が犯人だって言ってんだから、間違いなくトマが犯人ですよ。 ねえ!? 」
「‥‥‥ 」
「ちょっと中を覗いて――― 」
 礼拝堂(シャペラ)を見詰めていたブノアは、まったく返事をしないプチ・レイを振り返った。
 そこには、地面に倒れたプチ・レイの姿があった。
「あ‥ 兄貴‥ 」
 ブノアは跪(ひざまず)くと、プチ・レイを抱き起こし、何度も声を掛けた。
 だが、レイモンドはピクリともしない。
「ああ‥ ついにプチ・レイ兄貴まで病気に――― 」
 ブノアが悲嘆(ひたん)の声を上げた時、彼は背後から声を掛けられた。
「大丈夫だよ。 コイツは寝てるだけだ♡ 」
 そこに立っているのは、彼らが見張っていたはずのトマであった。
 さんざん訓練を積んできたブノアが、背後に立たれた気配をまったく感じなかったのだ。
「10日もすれば目を覚(さ)ますだろう。 その間に、オオカミに囓(かじ)られなきゃいいがね‥‥♡ 」
 頼純とともにリジュー村へ行った者と、行かなかった者で、大きく差がついてしまったようだ。 行かなかった者は、その3日の間にファレーズの井戸水を飲み続けていたからである。
 おそらく、他の見張りも全員倒れているのだろう。
 礼拝堂に配備された『カラス団(コルブー)』で、現在意識があるのはブノアだけだった。
 ブノアは素早く立ち上がると、薄ら笑いを浮かべたトマの胸倉を掴(つか)んだ。
「貴様だろう!? 貴様がやったんだな。 兄貴やおふくろや、そして街のみんなを病気にしたのは貴様なんだろう! 」
 そう叫んだブノアの目の前で、トマがパンッと手を叩いた。
「え‥ な‥ 何だよ? 」
 驚くブノア。
「静かに! 」
 トマは法衣を掴(つか)むブノアの両手を握ると、その瞳の奥を覗(のぞ)き込んだ。そして、静かにつぶやく。
「いいか‥ 俺が3つ数えたら、お前のこの手から、力がどんどんと抜けていく。 そして、体がフワフワと浮くような、いい心持ちになるんだ! 1‥ 2‥ 3! 」
 途端、ブノアは両手をだらりと下げ、目がトロンとなってしまった。
 『山犬のジャン』に毒薬を飲ませた時、警備兵を操(あやつ)った催眠術である。
「さあ‥ ついてくるんだ 」
 トマが命じると、ブノアは黙ってそれに従った。
 2人は、物音ひとつしない館へと向かっていくのだった。