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 1026年 ルーアン城


 ルーアン城での祝宴(しゅくえん)は、初日こそ盛り上がったが、二日目に起きたエドゥアール(英=エドワード)王子による『教皇庁(きょうこうちょう)』発言によって、一同は冷や水を浴びせられ、それ以降ドンチャン騒ぎの空気はなくなってしまった。
 それでも宴会は予定通り五日間続き、昨夜やっと終了を迎えたのだ。
 宴会疲れから一息つく間もなく、ロベールら一行は本日、ファレーズへ帰投(きとう)する予定になっていた。
 『ドラゴンの頭』と『ドラゴンの皮』は、リシャール3世に献上(けんじょう)する事となっていたため、帰りの荷物はずいぶんと減り、仕度(したく)も簡単にすんだ。

 準備を済ませたロベール伯(コント)と頼純は、リシャール大公へ出立(しゅったつ)の挨拶(あいさつ)をするため、広間へと出向(でむ)いた。
「大公様‥ 我々はこれでお暇(いとま)する事といたします 」
 玉座に深々と腰を下ろしたリシャール3世は、それに鷹揚(おうよう)に頷(うなず)いた。
「うむ‥ 大義であった。 気をつけて帰るがよい 」
「ありがとうございます。 では失礼いたします 」
 広間から退出しようと、ロベールが頭(こうべ)を垂れたまま後ずさった時、頼純が彼に声を掛けた。
「そうだ、伯爵さん‥ アンタ、大公さんにお願いを聞いてもらっちゃどうだい! 」
「え!? お願い―――? 」
 ロベールはキョトンとした顔を頼純に向けた。
「ああ! 大公さんは、ドラゴンを倒した褒美(ほうび)に、アンタの望むモノを与えてくれるって約束してくれたじゃないか。 だから、それを果(は)たしてもらうのさ 」
「い‥ いや‥ わたしは今は欲しいモノはないから‥ だから、もう少し考えて、お願いするって―――こないだもそう言ったでしょう 」
「ナニ言ってんだよ。 欲しいモンならあんだろうが! 正直に、それをお願いしちゃえば?  」
 珍しく笑顔になったリシャールが、興味津々(しんしん)で尋(たず)ねてきた。
「ほう‥ お前が欲しいモノとは何だ? たいていのモノなら叶(かな)えてやろう 」
「そ‥ それが、わたくしにも―――!? 」
 小首を傾(かし)げるロベールの代わりに、頼純が彼の望みを代弁した。
「政治ですよ、政治! 農政改革から徴税(ちょうぜい)に至るまで―――ファレーズの領地を統治する権限を彼に与えてやってください! 」
 リシャールは途端(とたん)に顔を曇(くも)らせた。
「それは‥ あの、領民達に鉄製の農具を配るとか、重量有輪犂(ゆうりんすき)を普及させるとか言っておった―――あの事か‥? 」
「そうです! 」
 リシャールは、呆れたように薄笑いを浮かべた。
「いやいや‥ あれは無理だと思うぞ。 おそらく、愚(おろ)かな農民どもは、手に入れた高価な農具をすぐに売っ払って‥ その金で酒でも飲むに決まっとるんだ。 そして次の日からは、元の木製の道具を使って農作業をするだろう。 農民とはそういうもの。 だから、そんな事に金を掛けても、なんの意味もない! 」
「ンなコタァ、判んネーでしょう!? 」
 頼純は年下のリシャール3世をたしなめた。
「大公さん‥ アンタは、伯爵さんにドラゴン退治を命じた時、この人が本当にドラゴンを倒すって思ってましたか? いや、ドラゴンが存在する事さえ信じてなかったハズだ―――まあ、あれはワニですけどネ‥ 」
 リシャールは渋々頷(うなず)いた。
「そ‥ それは確かに‥! すべてがあり得ないと思っていたが――― 」
「けど‥ それを伯爵さんは成(な)し遂(と)げた! だったら‥ この農政の改革だって、いまは出来ねェと思ってても‥ もしかしたら、伯爵さんが成功させちゃうかもしれネーでしょう? 」
「ま‥ まあ‥‥ 」
「なら、一度やらせてみればいいじゃネーですか! 成功して税収が増加すれば、他の領地でも参考にすればいいし‥ 仮に失敗したって、そう大きな損失はないでしょう!? 」
「はたしてそうであろうか‥ 失敗すれば、その借財(しゃくざい)のツケはこのわたしに回ってくるような気がするのだが‥ 」
「おお‥ なるほど、なるほど! だったら、そのツケが回ってくる前に、資金も融資(ゆうし)しちゃいましょうよ。 ね!? 」
はあ!? 」
 リシャール、ロベールの兄弟は声を揃(そろ)えて驚いた。
 頼純は腕を組んでしばし考えると、
「そうだなァ‥ じゃあ、百万ドゥニエ(現在の約十億円ほど)でいいや。 今から5年間の猶予(ゆうよ)をいただいて、6年目から毎年十万ドゥニエずつ返済していくって事で‥ いいですよね!? 」
「あ‥ ああ‥ 」
「ツー事で‥ よろしくお願いしまァす! 」
 頼純はリシャールに勢いよく頭を下げた。
 あまりの図々(ずうずう)しさにポカンとしていたリシャールも、彼の勢いに押されて思わず頷(うなず)いてしまった。
「わ‥ わかった‥! 」
 びっくりしたロベールが兄を振り返った。
「え!? いいんですか? 」
 リシャール3世は苦笑いでそれに返した。
「こやつの口車につい乗ってしもうたが、約束は約束じゃ! 褒美(ほうび)としてファレーズの政治・行政はすべてお前に任(まか)せよう 」
「あ‥ 兄上‥ ありがとうございます! 」
 ロベールは悲願が叶(かな)い、兄を感動の目で見詰めた。その瞳には涙さえ滲(にじ)んでいる。
「精一杯、政(まつりごと)に精進(しょうじん)いたします‼ 」
 リシャールはいつもの厳しい表情に戻ると、
「ただし‥ 借金の支払いが一度でも滞(とどこう)ったら、その時は領地をすべて没収(ぼっしゅう)するものと心得よ! 」
「はい! 」
 ロベールは片膝を立てて跪(ひざまず)くと、兄へ深々と頭を下げた。

     ×  ×  ×  ×  ×

 城を出たロベールら一行は、再びルーアンの住民達に大いなる祝福を受けながらファレーズへの道のりを戻っていった。
 住民達とて、祝宴(しゅくえん)での『ローマ教皇庁(きょうこうちょう)』発言の噂は耳にしていた。
 だが、ロベールと頼純はすでに英雄譚(えいゆうたん)の主人公として完成していたのである。庶民にとって、二人は物語の中に住んでいるのだ。
 それゆえに、二人の人気が衰(おとろ)える事もなかったのだった。

 リシャール大公は、わざわざ城壁の回廊(かいろう)にまで登り、歓声を浴びながらルーアンの外門(そともん)へと向かう弟達の様子を見下ろしていた。
 彼にとって、それは誇(ほこ)らしい光景であった。長年、頼りない弟の行く末を案じてきた兄にとって、やっと安心できる時が訪れたのだ。
 すでにずいぶんと小さくなってしまったロベールら一行の後ろ姿を いつまでも見送るリシャールの元へ、異母兄弟の侍従(じじゅう)であるクリストフがゆっくりと近づいてきた。
「なんという光景でしょうか。 弟君は大人気でありますな。 すばらしい事です 」
 彼は笑顔でリシャール3世に話掛けてきた。
「うむ‥ 」
 リシャール3世は弟から視線をはずさず頷(うなず)いた。
「沿道の見物人達もロベール伯(コント)に大歓声を送っておりますぞ。 まるで、ノルマンディー中の領民が伯爵を慕(した)っておるかのようです 」
「そうであろう‥ 」
 リシャールの隣に立つクリストフの顔が、含みのある薄笑いへと変わった。
「しかし、このように人気があっては、どなたがノルマンディーの主人なのか判らなくなってしまいますなァ‥ 」
「‥‥‥ 」
 クリストフはリシャールの耳元で囁(ささや)いた。
「お気をつけなさいませ。 ゆめゆめ、寝首など掻(か)かれませぬように♡」
 それまでクリストフを無視していたリシャールが、始めてこの男に視線を回した。その目はまったく笑っていない。ただただ、薄汚い物を見る目つきだった。
 だが、クリストフのその言葉はリシャールの心に、小さくはあったが、確実に黒い染みを作っていた。
 そしてこの囁(ささや)きが、その後40年にも渡る様々な陰謀の始まりとなるのである。

     ×  ×  ×  ×  ×

 一行は沿道の人々の歓声を浴びながら、ふたたび3日を掛けてファレーズへと戻ってきた。
 頼純はファレーズへ到着すると、すぐにでもモン・サン・ミッシェルへ向かおうと決めていた。
 隊商(キャラバンヌ)本隊と別れてもうずいぶんと日が経(た)っていた。頼純は、仲間達が心配しているだろうとずっと気にしていたのだ。そして、戻ったならば、隊商(キャラバンヌ)の体勢を立て直し、ロレンツォが復帰次第、直ぐさまイベリア半島へ出発できるよう準備を調(ととの)えようと考えていた。

 ‥‥‥‥本音を言えば‥ 早くサミーラに会いたかったのである。

 だが、歓声の中、一行がファレーズ城の門をくぐると、そこには多くの家臣にまじってそのサミーラがいるのだ。彼女はロベールを出迎えたエルレヴァの隣で一緒に手を振っていた。
 驚いた頼純は彼女に駆け寄った。
「どうした? 何かあったのか? なぜ、モン・サン・ミッシェルで待っていなかった? 」
 その問いにサミーラが答えた。
「ヴェネチアのロレンツォ様より御使者がみえられまして‥ ロレンツォ様はあと数ヶ月間は彼(か)の地を動けないそうでございます。 だとすれば、おそらくヨリ様はこの街に逗留(とうりゅう)なさるのではないかと思いまして‥ それで、身の回りのお世話をするタメ、わたくしは戻って参(まい)ったのでございます 」
「いや、いいよ。 俺もモン・サン・ミッシェルに戻るって! 」
 そこへロベールが嬉(うれ)しそうに近づいてきた。
「エルレヴァから聞きましたよ。 まだ隊商(キャラバンヌ)は出発しないんでしょう? だったら、ヨリ殿はもうしばらくこの街にいてくださいよ。 なんだったら、隊商のみなさんもこの街にお呼び寄せください。 この街での食事と宿は、わたくしがすべて面倒みさせていただきます♡ 」
 だが、頼純はうんざり顔で首を横に振った。
「いやいやいや‥ けっこうですよ! アンタらにかかわると、ろくな事にならネーんだから。 こんな短期間で何度も死ぬ様な思いをしたのは、インドでガズナ国の兵士に追い掛けられて以来だ。 もう、真っ平ゴメンだネ! 」
「けど、これから農政改革が始まるんですよ。 アナタが兄上からもぎ取ってくださった政治ですよ。 百万ドゥニエがどう使われるか、見てみたいとは思いませんか? 」
「‥‥‥え!? 」
 ロベールは子猫が甘えるように、頼純の瞳を覗(のぞ)き込んだ。
「最初だけでも―――新しい時代が始まるところを見ていってくださいよん♡ 」
「う~~~ん‥ 」
 しばらく考えた頼純は、ちょっと気恥ずかしそうに答えた。
「だ‥ だったら‥ も‥ もうちょっとダケ、この街にいてやってもいいかな‥? へへへへ‥‥ 」

     ×  ×  ×  ×  ×

 イングランドの首都ウィンチェスターの空はどんよりとした雲に覆(おお)われていた。
 それは、これから起こる災厄(さいやく)を予兆(よちょう)しているかのようであった。

 そのウィンチェスター城の広間に大きな声が響く。
な‥ なにィ!? 」
「大王様‥ どうか、お声をおひかえくださいませ‥ 」
「お‥ お前は今‥ エストリドをロバート(仏=ロベール)伯(アール)へ嫁がせると言うたのか‥? 」
 昼なお薄暗い広間には、クヌート大王とその寵臣(ちょうしん)・ウェセックス伯(アール)ゴドウィンしかいなかった。ゴドウィン伯が人払いをさせたからである。にもかかわらず、彼は声を潜(ひそ)めて話した。それほどに重要な密談であったのだ。
 ニッコリと微笑(ほほえ)んだゴドウィンが、クヌートに静かに語り掛けた。
「さようでこざいます。 ノルマンディー公家へ嫁入りなさるのは、大王様の妹君であらせられるエストリド様が一番のご適任かと存じます 」
 だがクヌートは、ゴドウィンの話を一蹴(いっしゅう)した。
「バカな事を申すでない。 あれは我が友、ウルフ伯の妻じゃぞ! 結婚してもう十年もたつのだ。 子供とて二人もおる身。 そのようなエストリドを嫁に出すだとォ‥ くだらぬ戯れ言(ざれごと)もいいかげんにせい! 」
 しかし、クヌートの笑顔が少々引き吊(つ)っているのは、心の中でそれを完全に否定できないからなのだろう。
「戯れ言(ざれごと)ではございませぬ。 エストリド様は、大王様にもっとも近い姫君にあらせられまするぞ。 ノルマンディー公国を大王様の意のままに操(あやつ)るためには、最適の人材でございましょう 」
 クヌートはイライラした顔でゴドウィンに噛み付いた。
「では、ウルフ伯はどうするのじゃ? キリスト教に改宗した以上、もはや我らには離婚などできぬのだぞ! 」
「‥‥‥ 」
 言葉を返さず、ジッと自分の目を覗(のぞ)き込むゴドウィンに、彼の言いたい事を悟ったクヌートは大きく息を呑(の)んだ。
「ま‥ まさか、ウルフを殺せと―――? 」
 ゴドウィンは蛇の様な目で笑った。
「大王様とて、本当はお気づきのハズです‥! 大王様にとって、いまもっとも恐ろしい人物がウルフ伯殿である事くらい――― 」