22
1026年 ファレーズ城・中庭(4)
ガチャガチャと金属がぶつかり合う音が、静まり返った中庭に響いた。
観衆の大部分を占めていたノルマン公家とファレーズ伯領の、あわせて170人もの騎士・兵士は、ティボーの指示に従ってとりあえず剣を抜いてみた。
だが、本当に頼純を殺して良いモノかどうか判断がつかず、混乱している。
エノーとアンドレの兄弟は、三人の兵士に抱えられて退場していた。
正眼に構えた頼純は、周囲の兵士一人一人を確認するかのように、ゆっくりと太刀(たち)の切っ先を動かしていく。
「さあ来い! 」
それは自分に言い聞かせるようなつぶやきだった。
だが、頼純に斬り掛かってくる者は誰もいなかった。
観衆には騎士・兵士だけでなく、商人や医師などの裕福な町民、コックや召使いなどの城の使用人ら150人ほどがまだいた。非戦闘員である彼らは、これから起こる事態が想像もつかず、大いに脅(おび)えていた。
だが、それは兵士達も同じである。これからどうなるのか、まったく判らなかった。
「何をしている! さっさと奴を殺すのだ‼ 」
ティボーが声を荒(あら)げたが、それでも誰も動かない。
170人の兵士全員がリシャール3世の指示を待っているのだ。
兵士達の内、大半を占める120人はファレーズ伯の家臣である。彼らはその執事であるティボーの命令に従ってもよさそうなものだが、そうはならなかった。ロベール伯のいない現在、彼らはリシャール公の指揮下にあったからである。
だが、そのリシャール大公は、厳(いか)めしい顔で観覧席に腰を下(お)ろしたまま、何も命じようとはしなかった。
「待って! 」
その時、広場に声が響いた。
中庭に飛び込んできたのはロベールだった。彼は兄リシャールと頼純の間に進み出た。
「兄上‥ アナタは何をしようとしているのです? 」
リシャールは突如出現した弟をジロリと睨(にら)んだ。
ティボーもその登場に驚いている。
「わ‥ 若‥ アナタは自室に軟禁(なんきん)されていたのでは―――? 」
ロベールは小便と偽(いつわ)って、見張りの兵士が油断したすきに、部屋から逃げ出したのだった。いくら、大公からの命令とはいえ、しょせんはロベールの家臣達である。見張りといっても、ゆるゆるの状態だったのだ。
「アナタは、このヨリ殿と約束をなさったではありませんか!? 二人と戦って勝てたなら、彼を無罪放免(むざいほうめん)にすると! だったら、なぜ‥? 」
ロベールはナイフを手にしている。逃げ出した際に食堂から拝借(はいしゃく)してきたモノであった。
それに気づいたリシャールが苛(いら)立った声を上げた。
「誰ぞ‥ 主人である公爵の命(めい)に背(そむ)いた、この愚かな伯爵を引っ捕らえい! 手にしたナイフなど恐るるに足らんぞ! 」
その命(めい)を受けて、数名の兵士がロベールを拘束(こうそく)しに向かった。
ロベールは持っていたナイフを自分の首に突き付けた。
「このナイフで、皆様の鎖帷子(くさりかたびら)を断(た)ち切る事はできませぬが‥ 我が首ならばいともたやすく切り裂けますぞ! 」
その場の全員が息を呑んだ。
ロベールは涙を流しながら広場に響き渡る声で叫んだ。その涙が悔(くや)しさからなのか、恐怖からなのかは判らなかった。
「兄上のお振る舞いは許しがたい! 我が城に大軍で押し寄せ、わたしの大切な友人を捕縛(ほばく)し、あまつさえその友人を殺そうなどとの横暴(おうぼう)三昧(ざんまい)! そして、一同の前でした約束さえ守ろうとしない頑迷(がんめい)さ―――そのすべての行(おこな)いに抗議いたします! 自害(じがい)して、この身が地獄へ落ちようとも、もはやかまいませぬ! 」
キリスト教の禁忌(きんき)である自殺は、その者が神から救われない事を意味していた。
元々は、神やキリストに殉教(じゅんきょう)死する信者が跡(あと)を絶たなかったタメ、それを禁止した事が始まりだった。
だが、旧約聖書に書かれた十戒の「汝(なんじ)、殺すなかれ」という戒律(かいりつ)からも、キリスト教徒には自殺の権利が認められていないと解釈された。自殺は、『自分という人間を殺す事』になるからである。
やがて、自殺は生と死を司(つかさど)る神の権限を侵(おか)す罪であるとされ、これを行った者は教会から破門されるようになる。
それゆえ、自殺はキリスト教徒が最も嫌う行(おこな)いなのである。
リシャールは、そんなロベールの行動を鼻でせせら笑った。
「フン‥ どうせできやせぬわ。 かまわぬ‥ まずはロベール伯を取り押さえるのじゃ! 」
左右から四名の兵士がロベールに近づこうとした。
彼はそんな兵士達を涙目で睨(にら)みながら、首に当てたナイフに力を込めた。
「ああ‥ 主(しゅ)よ! このようなわたくしをお許しください‥‥ 」
首筋から血が滴(したた)った。
「―――! 」
その赤いしずくを見て、誰もが凍り付く。ロベールが本気だと悟ったからである。
ティボーが慌(あわ)ててそれを止めようとした。
「わ‥ 若‥ ロベール様、なりませぬ! そのようなご無体(むたい)をなさってはなりませぬ! 」
だが、ロベールはティボーの制止を無視した。そして、さあ、答えやいかに‥‥とばかりに、兄のリシャール大公に迫(せま)るのだ。
それは、ロベールの初めての反抗だった。
進むも戻るもできなくなったリシャールは、憎々しげに弟を睨(にら)むしかできなかった。
× × × × ×
ファレーズ城下の最下層に建つその館は、貧民街にあって場違いなまでに豪奢(ごうしゃ)であった。
近隣の家々は、掘っ立て小屋かそれ以下のあばら屋だというのに、それらの五十軒分はあるだろう大きな敷地は、立派な板塀で囲まれていた。
広々とした敷地内には、『領主の館』と遜色(そんしょく)ない建物と、作業場らしき建物が建っている。
そしてその中庭には、幾つもの物干し台が建てられていた。川の水で何度も何度も水洗いした皮を干すための物干し台である。
その立派な建物の中から、大きな悲鳴が聞こえてきた。
頬(ほお)を殴られた男はコマのように回転すると、背後の壁に激突した。
そのまま床に崩れ落ちた男に、殴った若者が歩み寄った。
男を見下ろす若者は、この家の長男でエルレヴァの弟であるゴルティエだった。
「あのさァ‥ いまお城では、世紀の大決闘をやってんだぞ! ホレッ‥ 耳を澄(す)ませば、歓声が聞こえてくるだろう!? そんな、一生に一度見れるか見れないかの凄(すげ)ェ試合を、テメーのせいで見れなくなっちまったんだ! この償(つぐな)い、どうしてくれんだよ? 」
床の男は脅(おび)えた目でゴルティエを見上げた。
「そ‥ そんなコト言ったって‥ 俺を無理やりさらって、ここに連れてきたのはアンタじゃないか‥! 」
「ナニィ‥」
ゴルティエは拳を振り上げた。
「ひッ! 」
と声を上げて男が防御態勢をとった時、入り口のドアが開かれ、表からでっぷりと太った男が入ってきた。身長もかなりある大男だ。
「さっきの音‥ やっぱり雷みたいだったぞ! 前にジョゼが住んでいた小屋だ。 火事にはならなかったが、中は真っ黒に焦げていた 」
男はエルレヴァの父・フルベールである。彼は床に転がった男に気づいて声を掛ける。
「おお、アンリじゃネーか‥ 今日はどうした? 」
その問いに、ゴルティエがうんざりした顔で答える。
「いやね‥ コイツに去年貸した金――支払いが、もう三回も滞(とどこお)ってんだよ。 だから、ちょいと焼きを入れてたのさ 」
「そうか‥ それじゃあ、殴られてもしかたネーな‥ 」
巨躯(きょく)を揺らして近くの椅子に腰掛けたフルベールに、アンリと呼ばれた男は半べそで訴える。
「いや、旦那‥ あんな金利じゃ、とてもとても返せませんや。 後生(ごしょう)だから、もう利子は勘弁してください‥ 」
ゴルティエはアンリに食って掛かった。
「おいおい‥ 金利の話は貸す前にちゃんとしたハズだぞ。 あんたはその条件を納得した上で、泣いて『貸してくれ』って頼み込んだんじゃネーか。 それを、あとになって四(し)の五(ご)の言うない! 」
フルベールは革なめし業(ペルティエ)を営(いとな)む一方で、金貸し業もやっていたのだ。
キリスト教では、『兄弟に利息を取って貸してはならない』という教えがあり、教徒間の金の貸し借りで、利子(りし)を稼(かせ)ぐ事を禁じていた。
それゆえ、金融業の多くはユダヤ人が行(おこな)っていた。
『金貸し』をやるキリスト教徒は嫌われたのだ。
だが、フルベールが街の人々から嫌われていたのは、たんに『金貸し』だからというよりも、彼がそれで莫大な財産を築いていたタメ―――妬(ねた)まれていたというのが本当のところであろう。
しかも、いつもコソコソと陰口をたたかれる事に早々に開き直ったフルベールは、暴力的な取り立てまで行(おこな)うようになっていた。それで、ますます嫌われたのである。
一方、本業の革なめし業(ペルティエ)では、ノルマンディ一帯で同業者組合(ギィルダ)を作り、その長を務めていた。
革なめしの作業は、過酷(かこく)で重労働である。
まず、獣(けもの)の表皮(ひょうひ)から特別な刃物を使って、丹念(たんねん)に毛や肉、脂(あぶら)をこそぎ落とすところから始まる。
次に、犬などの糞(ふん)を擦(こす)りつけてそれを柔らかくするのだ。
さらには、その糞(ふん)のカルシウム分を洗い流すため、沸(わ)かした酸性の溶液(ようえき)に数日浸(つ)け込まなければならない。
油脂(ゆし)や肉の腐敗(ふはい)した臭いと、酸のツーンと鼻につく臭いが混じり合い、作業場からはたいへんな悪臭が発生する。それで、近隣(きんりん)の人々から嫌がられるのである。
だが、彼らはその強烈な悪臭の中で、日々作業を続けていた。
さらに、真冬でも川に入り何度も革を洗わなければならない。それは、気を失いそうになるほどの冷たさである。
こうして一年近くも掛けてやっとできあがったなめし革は、靴やベルト、紐(ひも)、袋、そして記録に使う羊皮紙など、あらゆるモノに使用される。
社会に絶対不可欠な製品なのだ。
にもかかわらず、その価格を貴族や商人達から勝手に決められる事は、革なめし職人(ペルティエ)達にとって耐えがたいものであった。
そこで彼らは、同業者組合(ギィルダ)を作ったのだ。
この組合は独自の秘術(ひじゅつ)をもって血盟(けつめい)を誓(ちか)い、会員の結びつきは強固である。
彼らは各地で複雑な連絡網を形成し、誰よりも早く他所(よそ)の価格を知る事ができた。そしてそれと同時に、さまざまな他の情報も得る事ができるのだ。
それはフルベールの営(いとな)む金融業にも大いに役立っていたのである。
五十も間近になり、すっかり禿げあがった頭をなでながら、フルベールはしばし考え込んでいたが、ふいにアンリに話し掛けてきた。
「そういや、アンタ‥ 子供ができたんだってな―――5番目の子供だったっけか? 」
アンリはオドオドした目でフルベールを見上げる。
「は‥ はい、よくご存じで。 カカアは10人産みましたが、いま生き残っているのが4人で‥ 新しいのが5番目になります! 」
フルベールは天井を見詰めて、何度か頷(うなず)いた。
「そっかァ‥ だったら、来月から利子だけでもいいや。 利率は月に元本の20分の1(5%)って事で! 」
その言葉に、アンリも息子のゴルティエも驚いた。
「え!? 」
「と‥ 父さん‥ そんなに安くしたんじゃ、商売にならないよ! 」
だが、フルベールはニッコリとほほ笑んだ。
「いいんだ、いいんだ! 我が娘エルレヴァも、間もなく子供を産む。 それも伯爵様の御子様(みこさま)だぞ。 その赤ん坊は俺の初孫でもある。 こんなにめでてェ事もネーだろう。 これはそのご祝儀だ♡ 」
「ッたく‥ 姉ちゃんの事になると、とんだ甘ちゃんになっちまうんだからよォ‥! 」
ゴルティエがげんなりした顔で言った。
しかし、月利が元本の1/20(5%)という事は、年利で12/20(60%)の利息という事である。それは十分に高利であった。
「その代わり、必ず利子は入れるんだぞ 」
「は‥ はい、必ず! ありがとうございます。 ありがとうございます 」
フルベールは懐(ふところ)からドゥニエ銀貨が数枚入った小さな革袋を差し出した。
「それから、コイツは俺からアンタの赤ん坊へのお祝いだ。 とっときな!」
「ああ、フルベール様‥ アナタはなんてお心の広い方なんだ。 このご恩は一生忘れません 」
革袋を受け取ったアンリは拝(おが)まんばかりに感謝した。
「いいって、いいって。 気にすんな♡ 」
だが、フルベールは計算していた。
このアンリには口止めをしていない。彼はきっと、娘のエルレヴァが伯爵の子を身籠(みご)もった事を好印象で周囲に話すに違いなかった。
そして、その噂話(うわさばなし)は野火(のび)のように町中に広まっていくだろう。
そうなれば、ロベール伯もエルレヴァを軽んじる事はできなくなる。
娘が妃(きさき)になれない事ぐらいはフルベールも判っていたが、公爵になる可能性がある男と親戚となる事に損はない。
彼はこの機会を利用して、さらに大きな利益へと繋(つな)げようと考えていたのである。
× × × × ×
「すみません‥ 通してください! お願いです、前に行かせてください‥」
助祭のトマは必死に人混(ひとご)みをかき分け、前に進もうとしていた。
一昨日から、彼の苦手なリシャール大公が城に逗留(とうりゅう)していたタメ、トマはずっと礼拝堂(シャペラ)の中に引きこもっていた。
本日、あの東洋人が捕まったと聞かされた時にも、『死ねばいい』と思っただけである。
その男は、彼が山賊『山犬のジャン』に依頼した伯爵殺害計画を台無しにした張本人なのだ。にもかかわらず、トマはそれ以上の興味を抱(いだ)かなかった。
しかし、憎きロベール伯爵が自(みずか)ら命を絶(た)つとなれば話は別である。
是(ぜ)が非でも、その光景を見逃すワケにはいかなかった。
彼が神から救済されぬ『永遠の地獄』へ落ちる瞬間を見物するために、トマは中庭に詰めかけた観衆を押しのけながら、ロベールが見える場所まで出ようとしていた。
× × × × ×
覚悟を決めたかのようなロベールの様子に、中庭の全員が息を呑んで、彼を注視していた。
そこへ、頼純が大きな声を掛ける。
「伯爵さんよ‥ アンタはこの俺を助けてくれようとしてんだろうけど‥ そいつは遠慮しておこう 」
「だ‥ だって‥‥ 」
「いいか!? この脅しが失敗したら、アンタは本当に自殺しなきゃならなくなるんだぞ。 キリスト教じゃ、自殺者は墓地に埋葬する事さえ許されねェて言うじゃネーか!? そんな負担をアンタに掛けるワケにゃいかねェよ 」
ロベールは鬼気(きき)迫る顔で頼純を振り返った。
「でも、このままじゃアナタは殺されて――― 」
頼純は呆れ顔で笑った。
「おいおいおいおい‥ この俺様が―――あのノルマンの巨兵二人をいっぺんに倒したこの俺様がだぞ‥ たかだかこれくらいの人数に、黙って殺されるとでも思ってんのかい? 」
そこへリシャールの怒声が響く。
「強がりを言うな! この状況で、お前が生き残る事など絶対にできん! 絶対にだ‼ 」
だが、頼純はまったく動じる事がなかった。
「そうだな‥ もしかしたら、俺は死ぬかもしれん。 けど、負ける事もネーんだよ 」
その物言いにリシャールは鼻白(はなじろ)む。
「な‥ なんだとォ? 」
頼純が太刀(たち)を掴(つか)んだ右手を上げた。
「おい! 」
その声に反応して、広場を見下ろすように四方に建った物見櫓(ものみやぐら)から人影が立ち上がる。彼らはみな弓を構えていた。
隊商(キャラバーン)の傭兵(ようへい)達である。彼らは観衆にまぎれて静かに移動し、物見櫓(ものみやぐら)の兵士を倒すと、そこに陣取っていたのだ。
彼らの矢は、リシャールやティボー、オズバーンの胸や頭を狙っていた。
リシャールが坐る席の後ろには、いつの間にかサミーラも出現し、逆手(さかて)に構えた小柄(こづか)で、いつでも彼の首を掻き切る事ができた。
頼純は不敵(ふてき)な笑みを浮かべて、その場の全員に告(つ)げる。
「いいか‥ 誰か一人でも動いてみろ。 テメーらの大切な大公様はその瞬間に死ぬ。 判ったか‼ 」
リシャール大公は奥歯をへし折れんばかりに噛(か)み締め、ただ唸(うな)るしかできなかった。
「ググググ‥ 」
中庭の誰もが動けなかった。